2010.09.26 Sun
2010年9月11日、まだまだ暑い秋の中、「やおい/BL(研究)の今を熱く語る」シンポジウムが開催されました。報告者は堀あきこさん、東園子さん、守如子さん、会場には、幅広い世代の方々でいっぱいで、やおい/BLへの関心の高さがうかがえました。
トップバッターは、堀あきこさん『BLは何を欲望するのか』で、男性向けエロマンガ誌とBL・TL(ティーンズラブ)との比較により、BLの可能性について論じられていました。まずは、雑誌の表紙比較において、男性向けエロマンガ誌のモデルは女性一人であり、カメラ目線で露出度の高い服、そして胸や臀部の強調がおこなわれていること、対して、BL・TL誌ではモデルは男性二人(TL誌は男女二人)であり、目線はカメラ目線や相手への視線など必ずしも画一的ではなく、露出度は低めで特に身体のパーツを強調したりはしていないとの指摘がされました。この差はセックスシーンにおいても顕著であり、男性向けでは、女性の描写が中心であり、男性キャラは後ろの方に描かれたり、透明化して描かれるなど、男性読者と女性キャラが一対一になるようなテクニックが用いられていること、対して、BLは攻め受けともセックスをしている両方を描き、内面のモノローグで登場人物の心情をも描いている点が特徴であり、読者は第三者的な位置にいることが指摘されました。以上により、男性向けでは、女性キャラの身体へのフェティッシュな欲望が想定されるのに対して、BLでは、男性向けとは違う欲望、登場人物たちの関係性への欲望があるのではないかという報告でした。
次の発表は東園子さん『やおいはなぜ恋愛を描くのか』では、ヘテロセクシャリズムの下、女性たちに与えられた「愛のコード」を女性たちが「やおい」において正しくなく使うことによって、女同士の絆が育まれていることが論じられていました。「愛のコード」とは非常にざっくりいうと、「恋愛とはどのようなものであるかに対する社会的に共有されている概念」であり、ヘテロセクシャリズムの下では非常に強く女性たちに働きかけられているものです。少年マンガの登場人物たちの関係を解釈する方法として、恋愛という女性分野に位置づけられたものを使うことによって、男性を排除し、女性同士のコミュニケーションを効率化し、女性同士が自分の解釈を発表し共感し議論し合ったりできるようになるとの報告でした。
最後は守如子さん『やおい/BLはいかに語られてきたのか』では、「やおい/BL」をとりまく言説に焦点をあて、「やおい/BL」への批判(過剰に性的表現である・同性愛差別である)と「やおい/BL」研究における「やおい/BL」の語り方の変化について論じられていました。まず、「やおい/BL」が過剰に性表現であるかについては、同時期に発売されたBL誌でセックスシーンがある作品を調べたところ、15作品中1作品のものから全ての作品にある雑誌まで非常に多様であり、また、読者の投稿欄を見ると性表現を登場人物たちの強い結びつきの表現とみており、純愛を志向している人も多いことが指摘されていました。そして、性表現が過剰という批判の裏には、性のダブルスタンダードがあり、女性が性的主体性を発揮することへの差別があるのではないかとの指摘もなされました。次に、「やおい/BL」は同性愛差別かという批判について、作品中で差別的ではない表現を模索しつつも、現実の問題とフィクションを同一視しない方法が可能なのではないかということが、論じられました。そして、「やおい/BL」論が女性の現実逃避や男性への復讐といったネガティブな評価から、やおいの魅力を問うものへとかわっていたったことを挙げ、「やおい/BL」の独自性、受けと攻めの対等性や読者の視点が第三者的位置をとり性表現を楽しみやすいという指摘がなされました。
三人の報告はどれも興味深く3時間以上のシンポジウムでしたが時間が過ぎるのがあっという間でした。ここで少し、三人のシンポジストの報告をきき私も「やおい/BL」について考えてみたいと思います。堀さんの報告で特に興味深かったのは、BLが読者の多様な読みを確保しているものだということです。読者は、「受け」や「攻め」に感情移入をしたり、第三者視点から楽しんだり、自分の好みに合わせることができ、読み方をある意味押し付けられている男性向けエロと違って自由なことがとても良い点ではないかと思いました。読者が単に一方的に物語を受容するのではなく、作品に対して言わば神の視点に立ち、作品に対して能動的になれる点がおもしろいと思います。
東さんの報告は、何故「やおい/BL」は恋愛を描くのかという、非常にラディカルな報告でした。そもそも、恋愛を描いているのが「やおい/BL」だと思っていた私は、このようなことを考えたことがなく、テーマの立て方もさることながら、女性たちが自分に強制されてきた愛のコードを使い、女同士の絆を高め、かつ、ヘテロセクシャリズムの意味をずらすことにも使っているとの指摘は、「やおい/BL」政治学というか、日々の「やおい/BL」的営みを鼓舞された思いがします。
守さんの報告で、特に考えたいのは、「やおい/BL」は同性愛差別かという批判についてです。守さんは、報告の中で『くされ女子 in Deep』(ブックマン社)という、レズビアンで腐女子の竹内佐千子さんが描くコミックエッセイのあるシーンを挙げ、リアルとフィクションについて考察されていました。それは竹内さんがゲイでBL好きの友人たちと話していたときのこと、その友人が腐女子の友達がほしいのだけれど「腐女子でBL好きだけどリアルはダメって言われるのはヘコむ」と言ったの対し、竹内さんが「たしかに百合好き女子にリアルレズきもいって言われたらムカつく」と返しているシーンでした。守さんは後者の発言、「リアルレズきもい」は確かに差別発言であるが前者の「リアルはダメ」ははたして同種の発言なのかと考えておられました。つまり、現実のゲイとイメージは別で、現実は萌えではない、ゲイということで差別はしないが、ゲイということそれだけの要素で仲良くなりたいとは思わないということは差別にはあたらないということなのかなと私は考えました。この表象の暴力という問題は、「やおい/BL」だけでなく、男性向けエロの女性差別という問題にもからみ難しい問題ですが、考えていかなければならないと思います。また、BLでよくある「俺はゲイではない。君だけが好きだ」というセリフは、根底にホモファビアがあるといわれ批判されており、「究極の愛」を表現するのにこの表現が必要なのかといわれています。このセリフは、確かに批判の通り、登場人物のホモファビアを前提に言われているのだと思います。しかし、自分のセクシャリティについて考えてみると、私は今のところヘテロですが、しかし、全ての男性とどうこうはなりたくはなく、自分のセクシャリティがこの先ずっとヘテロなのかは未来のことなのでわかりません。私が普段相手の性別を特に意識しないのは、私がマジョリティに属する者だからだと思いますが、人を好きになるときにいったい何が萌えどころとなっているかは、本当のところわかりません。このことから考えると、「俺はゲイではない。君だけが好きだ」というセリフは、人をホモかヘテロかに分類するヘテロセクシャリズムへの批判、性別だけではなく一個の人間としてあなたが好きですという、ヘテロセクシャリズムを克服した未来の社会の告白のセリフにもきこえてくるのです。
今回のシンポジウムによって、「やおい/BL」を語ることはやっぱり楽しいことであり、しかし、何故楽しいかというと、その背景にはジェンダー化された社会に生きる私というものがいるからだなと改めて認識しました。「やおい/BL」を語り女同士の絆を深めるべく日々がんばっていきたいと思います。
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