2010.11.08 Mon
WAN:今回の「突撃!隣のフェミニズム」は、活動レポートにも何度も登場されているWWN(ワーキング・ウィメンズ・ネットワーク)代表の越堂静子さんにお話しをお伺いします。WWNは、国際的なロビーイング活動も行っているパワフルなNGOで、多くの賞を受賞されてこられ、今年の10月には津田梅子賞を受賞されています。どのようにしてこのようなパワフルな活動が可能になったのか、どんな活動をされて来た/いるのか、お話しをお伺いしたいと思います。まず、WWN設立の経緯からお聞かせいただけますか?
越堂:ワーキング・ウィメンズ・ネットワーク=WWNは、1995年秋に、住友メーカーに対して9人の女性によって提訴された賃金差別裁判をサポートすることをきっかけとして設立された団体です。
WWNには前身として4つの草の根団体がありました。
一つは、1975年から約10年間,講演活動やミニパンフ発行などの活動を行った「国際婦人年北区の会」です。これは、WWN二代目代表の正路怜子さんがやっておられたものです。
二つ目は、同じく正路怜子さんが呼びかけられて、1980年から活動を始めた「男女賃金差別をなくす大阪連絡会」です。当時、組合女性部としては生理休暇の問題などを扱っていることが多かったのですが、それだけじゃダメじゃないか、賃金格差をどうなくしていくのかについての議論が必要じゃないかと発足。私自身は、当時は、男性の方が責任も重いんだから賃金格差があっても当然じゃないのか、というような意識でもあったのですが、この会で勉強していく中で、不当な格差であることに気づいていきました。
三つ目は、この会で学ぶ中で影響を受け、83年から活動を始めた「商社に働く女性の会」です。自分たちが働いている商社ではどうなっているのかについて、賃金や就業規則の実態調査を行い「商社の女性は今・入社から退職までの男女差別」というパンフを発行しました。
四つ目は1990年から95年の間に弁護士の宮地光子さんが中心になってやっておられた「均等法実践ネットワーク講座」です。これは「均等法をいかに活用するか」についての勉強会ですが、ここで一緒に学んでいた方から日本生命や住友生命、住友メーカーの各社に対して、賃金差別の問題を当時の大阪婦人少年室に訴える方が出てきたのです。大阪婦人少年室の調停不開始のあと、裁判しかないと提訴した住友メーカーの原告たちをサポートすることをきっかけにして、1995年にWWNが生まれました。
WAN:越堂さんご自身にとっては、前身のグループとしては、どの活動に一番かかわりがあったのでしょうか?どんな風に、越堂さんがこういう運動にかかわるようになったのか、そのあたり、興味があるんですが。
越堂:私は日商岩井という商社に勤めていましたので、「商社に働く女性の会」へのかかわりが一番大きかったでしょうか。この会で、1983年から2年かけて各商社の就労規則実態調査を行いましたが、当時は、カミングアウトして活動しているわけではなく、いわば「隠れキリシタン」のように、名前を出せずに活動しておりました。しかし、この「商社に働く女性の会」で、おのおの自分が所属している9商社の就労規則をもちより、調べることにより、男女別の福利厚生のあり方であるとか、男女別コースが存在していることであるとかが明確になり、1985年に「商社の女性の今」というパンフレットを出しました。アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.
このパンフレットについては、たとえば松田道雄さんが「私は女性にしか期待しない」という新書に紹介してくれたりして、小さな団体が作った報告書としてはかなり広範に読まれたように思います。
これをもって、1985年の世界女性大会ナイロビ大会でワークショップを行いました。ただ、自分自身商社に勤めていたので1週間くらいしかいけないんですね。短期間しか行けないという中で、かつ初めて世界会議で活動するというので、何が必要かよくわかっていなかったんです。参加者向けの資料を用意することもなく、名刺も持たず、というような状況でした。ワークショップ参加者から「ペーパーはないのか?」などといわれてしまいました。それだけではなく、出発直前に通訳がダウンして参加できなくなるというアクシデントがあり、英会話を習い始めていた私がにわか仕立ての通訳をするというような事態になり、むちゃくちゃ・・・ひどかったですよ。主催者にも苦言をいただきました。
WAN:今でこそ、国際ロビイング活動のエキスパートとも言えるWWNですが、前身の「商社に働く女性の会」の時代には、そういう失敗もあったんですね。
国内においての当時の状況・活動はいかがでしたか。
越堂:1980年代半ば、均等法前夜には、均等法において、男女別募集の禁止がコース別という文言の変化だけになるのではないかという懸念から、「商社に働く女性の会」として、山口労働大臣などに内容証明付きで意見を送ったりもしました。
これには前史がありましてね。1970年代後半に、男女別の賃金体系について、労働基本法第4条違反だとして、大阪中央労基署から複数の銀行を対象として勧告が出ているんです。
WAN:第4条ってのは、「使用者は、労働者が女性であることを理由として、賃金について、男性と差別的取扱いをしてはならない」って条文ですね。
越堂:そう。第4条違反の状況を是正するため、三和銀行に3億、第一勧業銀行に5億などのバックペイするようにという勧告です。これをふまえて、各商社は男性・女性による性別賃金体系では、労基法4条違反になるというので、これを、総合職・一般職による賃金体系という名称に変えていたんです。だけれど、これでは文言が変わるだけで男女平等の賃金体系になるわけではない。ですから、均等法によってこのような抜け道を防ぐべきだと主張したわけです。
ちなみにね。男子事務職、女子事務職というこの分け方から、総合職・一般職という分け方になるという時には、女性たちの方から異論が出たこともあったんですよ。というのもね、男性・女性という風に分けてあればある意味では上下関係はクリアにはなっていないわけです。実際ベテランの女性が新人の男性を指導したりすることもあったりするわけですしね。でも、総合職・一般職と言うと、それは上下関係になってしまう。だって、一般職の定義の中に「総合職の指示のもとに」というような文言が入ることが多かったんですよ。でも、実際には必ずしも男性の指示のもとで女性が働いているわけではなかった。その矜持があったので、男性・女性という区分なら受け入れられるけれど、総合職・一般職という区分は受け入れられないという反発があったんです。
現実には、1985年の雇用機会均等法においては、その指針でコース別については認められちゃいまして、男性職と女性職は、ほとんどそのまま総合職と一般職というコースに分けられちゃいました。
WAN:越堂さんご自身には、雇用機会均等法の影響というのは、あったんでしょうか。
越堂:男女雇用機会均等法では、総合職に女性がつくことについては当然認められたので、確かに女性が総合職にアプライすることは可能になりました。私もこれを機会に一般職から総合職にコースを変えました。「女性にも総合職への門戸が開かれるから試験を受けたら?」と言われて受けたわけです。でもね、私自身は「女だけに試験するんじゃなくて、すべての男性にも試験してはどうですか?」と労働組合に言ったことがあるんですよ。その時に、労組の委員長がなんて言ったと思う?「すべる男がおるからあかん」って。男性と女性と総合職の資格試験みたいな統一試験をしちゃったら、男性のうちで落ちちゃう人が出てくるから、統一試験はしないんだと。そう言ったんですよね。(笑)それはもう。おもろいけれど、腹立つやろう?
このころから、隠れキリシタンはやめて、先手必勝で上司に前もって言う事にしました。「新聞に記事がでます。テレビにでます」って。たとえば、テレビで「均等法1年、職場は変わったか?」というテレビ番組がNHKであったんです。生放送だったんだけれど。それに出演する時にも、「NHKに出て、しゃべりますから」というのを、出る前から上司などにはっきり伝えておいたわけです。どんなことでも先手必勝やん。先にきちっと伝えておけば、案外認めてもらえるわけです。もちろん、そこでは、コ―ス別人事の問題などを語りましたが、それで会社の中でどうこうということはなかったです。それからは、世界女性会議に行くのでも、国連に行くのでも、「行ってきます。」とはっきり職場のみんなに伝えてから出かけるようにしました。テレビに出るのでも「出ますからね。見てね」と、絶対に隠さない。するとね、案外大丈夫なのよ。「出る杭は打たれる」ということわざがあるけど、でも、「出すぎた杭は打たれない」のよ。これは教訓ね。
WAN:「出すぎた杭は打たれない」って。なるほど。それで、越堂さん自身は、1980年代後半に、総合職になられたわけですね。
越堂:そうそう。
あのね、自分の会社のコース別人事のあり方を批判しているからと言って、商社の仕事が嫌いなわけじゃなかったのよ。私だけじゃなくって、「商社に働く女性の会」にいた商社に勤めていた女性たち、みんな商社=自分の会社や仕事が大好きだったわね。だってね、仕事っておもしろいのよー。特に商社にはね、社員に裁量権があって楽しかった。一般職であっても、やっぱり個人で判断せざるを得ないことがたくさんあって、裁量権に任されるところがある。「うちの会社大好き」って言うと、「あなたは会社派なの」って非難されたこともあるんだけれど、でも私は会社が「敵」だと思ったことはないわ。仕事はムチャおもしろくって大好きだった。
で、40歳半ばで、うちの会社の総合職第1期生として、総合職になったわけ。ところが、総合職コースへの試験は通ったんだけれど、会社の中で所属場所がない。うちの会社の場合、部長がその人をとると言えば移動はできるんだけれど、部長は誰も「どう扱っていいか分からん」というので、総合職女性を敬遠してね。ほら、高卒の女には人脈がないじゃない。男であれば、大学が一緒だとかで、目をかけてくれる上司とがいたりしがちなんだけれど、私にはそういう人もいなかったし。
だけど、その前から、先輩の勧めで資格をとったりして自己啓発はしていた。その中に宅建免許があったのよ。結局、その宅建免許があったお陰で、免許保持者が必要なので建設部が引き取ってくれた。引き取ってはくれたんだけれど、初めての総合職でしかも、全社で初めての営業ウーマン、年下の課長は私をどう扱っていいかわからず、仕事は「自分で開拓せよ」と言って教えてくれない。でも、会社の名刺はあるでしょ。「担当者です」と名刺を出すと社の外では差別されなかった。差別は、社内で差別されるだけよ。ビジネスの世界では差別されない。結局、建設部門の小会社の課長に仕事を教えってもらって、一人前の営業ウーマンになるのに3年かかりましたね。
WAN:いやー。このあたりの話は、もっとゆっくりと、じっくりと、企業で働く女子のサバイバル術としてお伺いしたいところですね。たとえば、WANの連続エッセイとして書かれるとか・・・お願いしたいところです。
WAN:しかし。今日は、WWNの話に戻しましょう。WWNの国際機関へのロビイングなどの国際活動というのは、いつごろから始まったんでしょうか?
越堂:WWNの活動としてではないんだけれど、「商社に働く女性の会」で、1991年に国連に「CEDAWへの手紙・商社の女性は今・均等法後の職場は」というレポートをもっていったことが一つの契機となったと思います。これは、均等法後の9商社による賃金実態を調査してつくったのものなんです。
実は、その時もね、失敗談があるの。「働く女性の実態を一切記載していない日本政府レポートに代って私たちが、直接、国連へ職場実態を持って行こう!」って話になったんだけれど、私たちは「国連は、ニューヨークだ!」と思ったのね。それで、みんなでニューヨークの国連本部へ行ったのよ。そしたら、当時、女性差別撤廃条約を担当する女性差別撤廃委員会(CEDAW)は、ウィーンにあるっていうじゃない。「えー?」って焦ったんだけれど(笑)。
でも、その時は、このレポートを国連のフォーカル・ポイント・フォー・ウイメンの部長に渡すことができて、その方が、「草の根のグループが、このように直接、国連に訴えに来られたのは初めてです。非常に深く感動しました」、「あなた方の活動をまず、教えてください」って、きちんと話を聞いてくれて、「次回のCEDAW日本政府レポート審議会に、これをNGOレポートとして委員たちに配布する」って言ってくれたのね。それで、国際機関というのは、NGOのレポートをきちんと受け止めてくれるんだということが分かったわけです。
それから、WWNが発足する直前に、1995年の北京女性会議に参加しました。丁度、住友裁判の提訴直後のことだったので、50人規模で北京会議にのりこんでいって、「住友裁判はいま」という分科会を行いました。今度はペーパーもきちんと作って行ったのね。
これをやるときには少々ビビっていた部分もあったの。豊かな国の女性たちの賃金差別問題について、他の国々の人たちがどれだけ理解してくれるかなあ、って思って。だけど、実際は素晴らしかったわね。分科会に参加してくれたインドの女性は「我々は貧困によって苦しめられているが、あなた方も賃金差別によって苦しめられている。その根源はどちらも同じです」と格調高い意見に感動。中国の女性も、「中国では農民を、アメリカでは移民を、日本では女性を搾取することによって経済成長をとげるという特徴をもっている」と指摘してくれて。世界の女性たちとも連帯できる、ってすごくパワーをもらった。
北京会議と言えば、もうひとつすごくびっくりしたのが、インターネット。会場にコンピューターがずらーっとならんでいて、アメリカの人の名刺には、メールアドレスやWEBアドレスが載っていて、「うわあ。未来の名刺だ」とおもった。「いいなあ」と思って、帰国してからすぐWWNのホームページを、友人でITのプロに立ち上げてもらいました。オープンが1996年。当時は、まだ大きな会社のホームページでも「建設中」のページが多いっていう、そういう時代ですから、ずいぶん早くにWEB上での発信を始めたわけです。それで、朝日新聞にも紹介してもらえたんですよ。
さて、WWNの立ち上げのきっかけになった住友メーカーの裁判は、1995年に提訴して最終的にすべて和解したのが2006年。11年もかかっているんだけれど、始めた時には実は、あの住友に勝てるとは思っていなかった。あんな大会社に勝てると思うか?って、普通。でも、1991年の国連での経験や北京世界女性会議の経験があったから、WWNは女性差別撤廃条約と国際機関(国連やILO)に依拠した活動を戦略としました。
1994年にCEDAW日本政府レポート審議会の際に、裁判直前の原告予定者たちが出かけて行って、提訴についての説明したところ、CEDAWの委員たちに励まされるということがありました。原告予定者たちは、「男女平等は世界も流れだ。たとえこの裁判で自分たちが負けたとしても、結局笑われるのは会社だ」という確信を持てたと、話していました。
先に述べたインターネットという魅力的な広報媒体を手に入れたのと、国際機関が自分たちの主張を理解してくれるというのと、その二つを最大限に用いながらの活動が、WWNの特徴かと思います。
メディアに訴えるということが大事だと思うんです。それと、メディアに訴えるにしても、GIVE & TAKEが必要と教わりました。たとえば、国際機関にロビーイングに行くにしても、行く前にも帰ってきてからも、記者会見を行いましたが、日ごろからこんなことがあるよ、と記者さんたちに伝えたりして密な関係をもって関心を持ってもらっておくことが大事なんですね。また、記事に使える資料などを提供するなどの工夫もしています。記事にしやすい情報提供の仕方を心がけるわけです。
WAN:なるほど。メディアと国連機関を最大限に使いながらの活動ということですが、国連機関へのアプローチは最初からうまくいったのでしょうか。あるいは、継続していく中で変わっていった点はどんなことだったのでしょうか。
越堂:そうですね。たとえば、私たちは1997年にILOとEUの関係機関を訪問したことがありました。間接差別のコース別人事問題を訴えに行ったのです。けれどもその時には、ILOからは、「ILOは労働組合と政府と企業の三者構成にあるものだから、NGOの訴えを活かすことはできない」と言われました。一応面会していただいたことはありがたかったのですが・・・いわば、けんもほろろ。しかし、2007年にはILOを再訪問した時には、これは3回目の訪問ですが、信ぴょう性の高いデータだとして評価もしていただきました。ロビイングにも信頼関係と実績が必要なんですね。
やり方も徐々に変わっていきましたね。たとえば、私たちは最初は、国連に対して「聞いて聞いて、こんなひどいことがあるのよ。腹立つでしょー」と、いわば、言葉は悪いですが、チクリに行っていたのです。けれども、それでは問題解決を他人任せにすることであり、NGOとしては、問題解決のためのデータを提供し、「提案型」のレポートを出すようになりました。
2009年には、WWNはNGOレポートをCEDAWに提出しました。また、本会議の前6月にCEDAW委員であったパッテンさんを日本にお呼びして、対面で説明をすることができました。その結果、CEDAWの日本の現状を審議する本会議においては、WWNのレポートを何か所にもわたって利用してもらいながら、日本の女性差別撤廃の現状について日本政府に質問をしてもらうことができました。その結果として、コース別人事の改善についても盛り込まれた最終報告が出されたと思います。
日本の現状を説明するのに、短時間では分かってもらいにくいこともあり、何度も国連に足を運ぶ必要があり、分かりやすい資料を提供し、それを使ってもらうことが重要なのです。
WAN:WWN発足の契機となった住友メーカー裁判は、住友電工裁判で、2003年12月に裁判所から和解勧告が出され、住友化学、住友金属とつづき、住友金属裁判でも2006年に最終的に勝利的和解をしましたね。
この一連の裁判の流れなどについては、WWNのホームページに詳しい情報があるので、http://WWN-net.org/?page_id=3WANの読者の皆さまにはぜひそちらを見ていただきたいのですが、発足のきっかけとなった裁判も終わった現在、WWNの活動のメインはどのあたりにあるのでしょうか。
越堂:WWNは、ジェンダー中立な職務評価による同一価値労働同一賃金を主張し、コース別人事をなくすことを訴えてきました。ここは変わりません。
同一価値労働同一賃金ということを罰則規定をつけて法に明文化していき、それを司法と企業に守らすようにしていきたいと思っています。
昨年2009年のCEDAW日本政府レポート審議会にもとづいた最終報告については、特に、フォローアップ項目としての暫定的特別措置(ポジティブアクション)のとりくみについて実態がどうなっているのか、調査しています。各社のCSR(企業の社会的責任)のとりくみを勉強し、ポジティブアクションの実態についても管理職になった女性からのヒアリングや、女性たちのインタビューも行っています。現在までに18人の女性にインタビューを行いました。管理職になりたいか、なりたくないか、それはなぜか、等を調査しているところです。大きな問題は、総合職の女性がたった5%というコース別制度と、1700万人もの非正規のうち70%も女性が占めることです。そのうえ、なんの環境もないのに管理職に就かせられるということでは、女性たちに不安があるのは当然であり、自信がないのも当たり前です。調査によってポジティブアクションを進める上でどのような準備が必要かを明らかにしたい。
WAN:このような活動を行うWWNの運営・財政面についてもお伺いしていいでしょうか?
越堂:WWNは完全にボランティアでの活動です。
海外へ行くのも、このような日常活動もすべて自費にてのボランテイアです。
来年早々取り組む企業調査はそれぞれのメンバーが仕事を休んで自分でアポを取って自分でインタビューに行くという形を予定しています。これは、津田梅子賞の受賞金を新幹線代に充当させてもらいます。もちろん、それができるのは、WWNのメンバーが企業の中でも正社員にある人が多いから、という面はあります。
しかし、私たち自身、気持ちの中に「怒り」があったからこそやってこれたわけです。自らの中の「怒り」なり、「やりたいという意思」なりがないと、人間は動かないし、実りにならない。その意味で、ボランティアであるということは非常に大事だと思っています。
ただ、活動を支援できるようなしくみはつくってきました。会費の中から調査やロビイングのための交通費援助を行うとかですね。ありがたいことに、WWNは寄付をいただいたり、2004年に赤松良子賞をいただいて賞金をいただいたり、2006・2007年に俱進会から補助金をもらったりしてきたので、それは活動のための支援金として活用しました。
実際に、自分の足で出かけ、自分の目で見てくると、人は大きく変わります。ぜひ、若い人にもこのような活動に参加してもらいたいですね。
この調査結果をもって、来年2011年には、省庁交渉を行ったり、院内意見交換会を開催したりしたいと思っています。
WAN:少し意地悪い質問ですが、WWNの活動によって、社会は変わっていくんでしょうか。とくに、この非正規雇用が広がっていく現代において?
越堂:WWN自身は正規社員の賃金差別の問題を専門的に扱ってきたNGOです。たしかに、現状では、非正規雇用が広がっているわけですが、正社員における男女平等の実現、同一価値労働同一賃金の実現は、非正規社員の待遇の改善にもつながると思っています。
そしてまた、実際、これまで活動してきて社会は変わってきていると感じています。住友メーカーに勝てたなんて、本当にミラクルでしょう?
また、今年一年を振り返るだけでも多くのミラクルがありました。
一つ目は、2010年3月にサンデープロジェクトというメジャーなテレビ番組で、同一価値労働同一賃金についての特集番組が放映されました。私自身、あんなメジャーな番組でこの問題が扱われるとは思わなかったので、びっくりして「どうしたん?」と番組担当者に聞いたくらいです。その時に担当者から「世の中が変わったのです」と言われた。まさに、普通のことばとして「同一価値労働同一賃金」ということばが世の中に躍り出たのです。このようなメジャーなテレビ番組を通して、同一価値労働同一賃金が分かりやすく茶の間に届けられるようになったというのは、大きなできごとだと思っています。

津田梅子賞受賞記念
それから二つ目には、今年10月、WWNの長年の活動に対して、上述したように津田梅子賞が授与されました。大変名誉に感じていますし、この賞金30万円で、先ほど述べたポジティブアクションの実態調査ができるというのは、本当にありがたいことです。
また、この授賞式で、選考委員長の鹿島敬さんから「均等法が施行されて、四半世紀経つが残念ながら格差は依然としてあり、そんな中、WWNはILOや国連へ実態を訴える国際活動を活発に続け、最近ではCEDAWへ働きかけは注目すべきものがある。内閣府男女共同参画会議では、7月に第三次男女参画基本計画の答申をしたが、同一価値労働同一賃金の法明記など、同会議としてWWNの意見をかなり反映させてもらった」と講評いただきました。WWN の活動が国の審議会レベルにも影響を与えているんだと、大変うれしいことでした。
このように、自分たちの活動が社会で認められるようになってきている、影響力を持っている、というのはひしひしと感じます。私自身、多くの大学でも講演するようになりましたし、海外でも、ハワイ大学やライプチヒ大学で講演の機会をいただきましたが、2年後くらいに予定されている、ジュネーブの国連・社会権規約委員会の日本政府審議会が開催されれば、その時にドイツに飛んで会員が教授である、ベルリン自由大学で講演したいと考えています。
また、岩波書店からでた「新編 日本のフェミニズム」9巻においても、WWNが出した文章が採録されています。WWNの活動が社会の注目をあつめ、評価されるようになってきたこと、これもまた社会が変わってきたからだと思います。
WAN:成果をあげているWWNの活動ですが、越堂さん自身が今後も大事にしていきたい基本的なポリシーというようなものはありますか?
越堂:まず第一に、「知は力」。勉強することが大事だと思っています。知ることによって社会を変革しようとする力が生み出される。今年は、2ケ月に一回の割合で「CEDAW実践勉強会」を開催しました。第3次男女共同参画基本施策や厚生労働省からの文書を読み合わせ、会員の意識向上に寄与しています。それと、職場の実態調査です。働く女性へのインタビューは、100人をめざしています。
加えて、現在WWNでは「茶の湯に学ぶ」や、「働く女性の教養講座」も行っています。また、「経済を読む」の勉強会なども行っています。まずは、自分の考えを自分のことばで言えるような女性になってほしいと思っています。学びの中でコミュニケーション力がつきますし、人生が豊かになる。いや、ホント人間て素晴らしいな、と思わへん?さまざまな学びの中で力が生まれていくのよ。
それと、コミュニケーション力と関連するけれど、活動の中で、人間関係を育てていきたいと思っています。「私たちは圧力団体ではない」ということを意識しているので、国会議員に対しても、企業トップに対しても、ていねいな説明を行い、ともに社会をよくしていくWIN-WINの関係を築くことを念頭に入れて活動していきたいと思っています。
WAN:本日は、長時間にわたって、WWNと越堂さんご自身の活動についてお話をいただき、ありがとうございました。とっても前向きで元気の出るお話しで楽しかったです。パワフルなWWNと越堂さんのご活躍を今後も期待しております。ありがとうございました。
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