2010.11.11 Thu
10月15日の第5回講座は、お昼ごろに竹中先生が体調不良で点滴を受けて自宅に帰られたので、休講になったときの対応を相談するため、早めに集まりましょうという企画委員の伍賀さんからの連絡があり、ドキドキしながらドーンセンターに行ったが、先生は「講義だけはします」とやって来られた。安堵する反面、無理をさせていいのかと心が痛んだ。予定の80分は、あっという間で、いつもどおりの明快な語り口だった。
講義後は先生にはご帰宅いただいたが、コーディネーターの報告と質疑は予定通り行った。
今回の講義が「日本的経営とジェンダー構造」というテーマで、企業の戦略と法整備がどのように進められてきたかが中心であるので、そのカウンターパートナーである労働組合が、どのように対応したのか労働者はどういう状態であったのか、今後の課題は何かという点を概観的に報告した。ここでは、当日の言葉足らずであった点を補いながら報告したい。
1980年代から急速に「長時間労働の正社員と不安定雇用の低賃金非正規労働者に二極化」が進み、それが労働組合の組織率の低下をもたらしてきた。当時から「男性稼ぎ手モデル」で賃金要求してきた労働組合は、景気の調節弁としてパート労働者(主に女性)を活用することを容認してきた。自治体も例外ではない。私も欠員が生じ正規職員で埋めることが困難な職場に「緊急避難的に非常勤職員を配置」することを容認し、それが常態化することに歯止めをかけ切れなかった。結果、全国の自治体では、正規職員を上回る非常勤職員が配置されている自治体が多くなってきている。悔やんでも悔やみきれない。
組織率の低下に危機感を持った総評(当時)は1986年パートの組織化要綱を策定し、第1回パートタイマー全国交流集会を開催した。(このころは、当事者を集会の主役にすえてというところまでは行えていなかった。)大阪では翌年パートの集いin大阪(実行委員会主催)を開催している。
多くの議論を経て労働戦線の統一が行われ、1989年連合(日本労働組合総連合)が発足し、総評は解散した。大阪地評は写真を中心に編集された「大阪総評婦人運動年表」を刊行し、大阪の女性の運動を記録した。
1995年日経連が「新時代の『日本的経営』―挑戦すべき方向とその具体策」を発表した2年後の1997年、連合はパート法改正・労働法改悪阻止の署名を547万筆提出した。(この年、男性片働きを共働きが上回る。)
連合発足から10年後、組織率の低下に歯止めがかからない中で労働運動の未来を展望するため組織内議論が重ねられ、2001年連合『21世紀を切り開く連合運動―21世紀連合ビジョンー』が策定され、「労働を中心とした福祉型社会」を求めていくと提起した。私なりに短く説明すると「公正・公平で誰もが自立し、意欲と能力を発揮する労働を行う」⇒労働で得た賃金で等しく税と社会保険を納入し⇒医療・年金・介護・保育・教育など社会保障を充実させる⇒安心して働く」という好循環な社会である。それは男女平等参画社会、資源循環型社会によって実現されるというものである。
そのためには「均等待遇」の実現が必要との視点で、連合は、2001年連合第1回パート集会を開催し、それ以後当事者の参加を得て、毎年開催している。さらに、均等待遇を実現するには法整備が不可欠という認識から、「パート・有期契約労働法」提起した。
<2002年男女共同会議専門調査委員会「ライフスタイルと税制・社会保障制度・雇用システムに関する報告書」がだされ、性に中立な制度にしていくことが提起され、機運が醸成されてきた>
しかし、性に中立な税制・社会保障制度にするための法整備に向けた政策要求をめぐっての組織内議論は、一筋縄ではいかなかった。扶養手当の世帯主要件の廃止、配偶者特別控除廃止、男女賃金格差の是正、パートの社会保険適用範囲の拡大等は、長年の「男性稼ぎ手モデルの賃金要求」からの脱却という賃金政策の転換と「家事・育児の両立支援策が自分のものとして要求できているか」という組合員個々の生き方の問題、「企業側の負担増をどうカバーするのか、正社員への配分を減らすのか」という個別利害の問題などが其の都度大きな議論になった。連合の主な構成組織の代表が委員を送っている男女平等推進委員会と政策委員会の委員が激論を戦わす場面が数多くあった。
一方、政府、日本経営者団体連盟及び日本労働組合総連合会は、不良債権処理の進展など構造改革が進む中で、雇用情勢が更に悪化する可能性の中で、失業の防止、国民の雇用不安を解消するため、2002年3月「ワークシェアリングに関する政労使合意」を行った。これは、緊急対応型ワークシェアリングについて具体化を図るというもので、多様就業型ワークシェアリングについては、働き方に見合った公正な処遇、賃金・人事制度の検討・見直し等多様な働き方の環境整備に努めるとされ、いまだに具体化にはいたっていない。
また、連合は自らの運動への外部からの評価と指摘で労働運動の「起死回生」のための運動の方向を探るため、外部委員による評価委員会を設置し、1年半の議論を受けて2004年9月に報告がだされた。それは、率直な厳しい現状への指摘と今後の運動への期待、提起を実行しなければ未来はないという厳しい報告であった。(連合評価委員会報告で検索して是非読んでほしい)曰く「今、労働運動に一番に求められるのは、高い“志”、不公正や不条理なものへの対抗力、それを正すための具体的運動と戦う姿勢。労働者の自立と自律、そして連帯へ」これらを受けて連合は、運動方針に反映し、「部屋の中のぬるま湯につかる組織労働者のみの組合からすべての労働者の課題に立ち向かう労働組合」への脱皮を目指した。
それが、春闘での中小共闘会議・パート共闘会議の立ち上げとなり、パートの賃金引上げ要求が重点要求となっていった。いくつかの産別は、春闘で獲得した賃金改善原資をパート労働者に重点配分する方針を採り始めた。そして、連合の中に2007年非正規センターが設置された。
当時、日本の政治経済は、小泉内閣→安倍内閣と市場万能主義経済を推進し、経済財政諮問会議至上主義ともいえる運営だった。正規と非正規、男性と女性、中央と地方などで格差は拡大する一方だった。2006年秋、経済財政諮問会議は
労働市場の規制緩和=労働ビッグバンを提唱し、2007年の骨太方針に明記するとした。中でも民間議員の八代尚宏氏は「労働者の2割に満たない労働組合が『労働者の代表』として労働審議会等の場で主張している」「三者構成による審議会で利害調整する時代は終わった」と発信した。このままでは格差の固定化になると2007年参議院選挙は労働者の大きなうねりとなり、与野党逆転・「ねじれ国会」となった。2008年秋のリーマンショックによる「派遣切り」「年越し派遣村」が大きな社会問題となった。(この時、私は女性はずっとこのことを問題提起し続けていたのに、男性がこの仕打ちを受けたので社会問題化したのかと複雑な思いにとらわれたものである)そして、2009年政権交代に結びついていった。
2009年10月、連合は20周年を向かえた。この20年を総括し、ILOの提唱する「ディーセントワーク(人間らしい働き甲斐のある仕事)課題の4つの戦略目標(権利、雇用、社会保護、社会対話)を貫くのはジェンダー平等」であることを改めて、方針の柱にして進めていくことが使命だと思う。私の出身の自治労は、「官製ワーキングプア」解消のためには「正規職員と非正規職員が賃金をシェアすべき」と賃金削減分の非正規職員への配分を提起した。やっと、均等待遇の法整備を求めるだけでなく、自らの課題としてやれることは何かという議論が始まった。すべての働くものが均等待遇のもとでディーセントワークが保障され、ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)が図れるためには、意思形成過程への男女平等参画が不可欠であることを改めて肝に銘じたい。
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