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映画評「マディソン郡の橋」 みるとるみ

2011.02.01 Tue

現実よりも妄想を優先するヒロインってどうなのよ?

女性5人の集まりで、実に過半数が「妄想派」であることが発覚した。妄想派とはすなわち、好きな人と会わなくても彼とのデート場面や何やかんやを色々と妄想して、それで満足できるタイプ。従ってリアルなデートの必要性が徐々に減衰し、結果的に「おつきあい」が続かない(というか、続ける必要がない)。誠に便利な性癖である。
「マディソン郡の橋」のフランチェスカ(メリル・ストリープ)は、まさに妄想派の権化である。何しろ、見知らぬカメラマン、ロバート(クリント・イーストウッド)とのたった4日間の逢瀬を、それから死ぬまでの24年間ずーっと掻き抱いて、その96時間を無限大に拡大して彼との理想の関係を妄想し続けていたのだから。

私自身は妄想派に対する「リアル派」。恋はなんたってリアルでしょ、というタイプ。デートの前にある程度の妄想(というより期待?)は抱くものの、それはあくまで前哨戦に過ぎず、その後に続くリアルな展開の予行演習、もしくは評価基準となるに過ぎない。かつ、抱いた期待は裏切られるのが常であるから、リアル派はできるだけリアルに近い程々の期待を抱くよう自らを律し、勝手に期待して勝手に裏切られて勝手に失望する、という阿呆なサイクルに陥らないよう留意する。
 だから、個人的には全然フランチェスカに感情移入できない。彼女は、「一緒に行こう」と誘うロバートに対して「一緒に行ったら私たちは終わり」という。まさに、妄想が現実に裏切られることを予測している証拠。そのギャップをできるだけ小さくするための不断の努力や、恋が愛に変わる時の現実との妥協といった、男と女がリアルに関係を継続させるための一切の手続きから逃避しているのだ。
 土砂降りの雨の中に佇むロバートの姿に、ドアノブにかけた手を握り締めていたフランチェスカを、「現実的」と評する声は大きい。家族という現実を捨てられない、という意味では確かにそうだろう。けれど、4日間で燃え上がった恋を全うするという選択肢から見れば、彼女は明らかに現実逃避し、妄想に逃げ込んだのだ。
二人きりのダンスパーティで着た花柄のドレスをクローゼットの奥に大切にしまいこんで、現実の思い出を封印して、National Graphics(映画で触れられていたかどうか忘れたが、原作では、その後フランチェスカはロバートがいつも寄稿している雑誌を定期購読し始める)の写真を撮るロバートの傍らに自分が寄り添っている場面に酔う、妄想の世界に。

 けれども、保守的な場所柄と時代背景まで考えれば、やはりフランチェスカが家族を捨てて恋に走る選択をすることはありえなかっただろう。考え抜いた上でぎりぎりの選択をして、その後の人生に責任を持つ。息子と娘に遺書を宛てたフランチェスカは、おそらく死ぬときに後悔はしていなかっただろう。
妄想派とリアル派、どちらがいい、悪いという問題ではない。自分にとって最良の道を、みんな模索しているのかもしれない。

みるとるみ/家電メーカーからPEファンドに転身を図ったあと、モノやカネよりヒトが好きなことに気付いて独立、コンサル業へ。今や仕事はそこそこ、自称エッセイストとしてブログ書きながら、自由に機嫌よく生きることが人生のプライオリティー。http://miltlumi.exblog.jp/

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カテゴリー:新作映画評・エッセイ / DVD紹介

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