エッセイ

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「旅は道草」その17 ブルトレ・九州新幹線 長距離列車の旅  やぎ みね

2011.02.21 Mon

2011年3月12日、九州新幹線全線開通。N700系「みずほ」と「さくら」が滑りだす。新大阪~熊本を最速で2時間59分、鹿児島中央までは3時間45分と短縮される。今までは山陽新幹線で新大阪~博多まで、さらに博多~熊本間は在来線特急「リレーつばめ」に乗り換え、熊本まで5時間あまりかかっていた。

新車両は透き通るような白磁色、内装は木目調で、二人がけ2列のゆったりと贅沢な仕様だ。

昭和30年代寝台特急ブルートレインが走る前は、硬座のボックス席で一晩過ごす夜行列車だった。その前は特急も寝台も指定席もなく、かつてのスキー列車のように,ぎゅうぎゅうの詰め込みで、通路に寝そべる人、トイレに座り込む人、信じられないような混雑ぶりだった。

あれは昭和20年代後半、私が小学4年生の夏休み。熊本のおじいちゃん、おばあちゃん、おばちゃんたちに早く会いたいと、母より一足先に大阪から熊本まで、「一人で行きたい」と母に頼み込んだ。夜行列車で12時間の旅だ。

準備万端、出発の日が来た。4人がけの席には網シャツを着た、あんちゃん風の若い人、おばあさん、おじさんが乗り合わせた。おじさんが私の小さなリュックを網棚にあげてくれた。ホームで心配そうに見送る母に「大丈夫ですよ、任せてください」とみんながいうと、列車は静かに走り出した。

 「これ、食べない?」とお菓子を分けてくれるおばあさん。あんちゃん風の若い男も優しかった。今でいうイケメンかな。検札にきた車掌さんは「おじょうちゃん、ひとり?」と笑って、一人前の乗客として切符を切ってくれた。

ガタンゴトンとレールの音に誘われて、いつのまにか眠ってしまったらしい。

夜が明けて、「あさぁー、あさぁー」とホームで呼ぶ駅員さんの声で目が覚めた。山口県の「厚狭」という駅だった。

まだ蒸気機関車の頃。長い関門トンネルに入ると急いで窓を閉めないといけない。燃やした石炭ガラ(コークスの灰)が飛び込んでくるのだ。ボーッと窓を見ていたせいか、小さな屑が目に入ったらしい。コロコロして目が痛い。涙が出てもなかなかとれない。すると向かいに座っていたおばあさんが、いきなり私を抱き寄せ、瞼をくるっとめくると、自分の舌でペロッと嘗めてくれた。ごみがとれて楽になった。「ありがとう」というと「よかったね」とおばあさんが笑った。

母がつくってくれたお弁当を食べる。みんなは「べーんとう、弁当」と呼ぶホームの売り子さんから駅弁を買っていた。

そしてお昼前、無事、熊本着。おばあちゃんとおばちゃんが、今か今かと待っていた。「一人で、よく来れたね」の言葉に、私もなんだか、ホッとした。おばあちゃんが、「ほんとにお世話になりました」と何度もお礼を言って、道連れの3人と別れた。

これが私の初めての一人旅だった。

あれから何度、ブルートレインに乗ったことか。里帰り出産の後、熊本~東京まで、生まれて1カ月の娘をつれて帰ったのも寝台特急「はやぶさ」だった。

やがて新幹線のスピードアップとともに、ブルートレインは徐々に消えていき、今はわずか数本が残るだけ。だけど、新幹線は構造上、ブルトレほど長い距離、たとえば東京~鹿児島は走れないらしい。東京~博多、新大阪~鹿児島中央と区間を分けて走るんだとは、元国鉄マンの知人の言。

のんびり時間をかけて、乗り合わせた人と話したり、お弁当を分け合ったりする旅は、もう遠い昔のこと。

2月、九州新幹線開通とともに消える在来線「リレーつばめ」に乗って熊本の母を訪ねた。80代の母と叔母と60代の私の「三婆」で阿蘇の温泉へ。熊本から阿蘇へ列車で行くのも、なかなか大変。電化の区間からディーゼル区間に乗り継ぎ、そこからまた阿蘇のカルデラをスイッチバックで登っていく。ようやく雪の中の宿に着いた。ゆったりとつかる露天風呂から、白く、雄大な阿蘇の山を眺めて旅の疲れをとる。asonoyuki

旅は列車で行くのが一番。そして「三婆」ともども、元気に旅ができることを、ありがたいと思った。

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