エッセイ

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まだメールもケータイもなかった頃  やぎ みね

2011.03.20 Sun

  「まだメールもケータイもなかった頃、私はせっせとラブレターを書いた」と書きだした途端、ゆらゆらと揺れを感じた。「地震かな?」と思ってテレビをつけると、東日本大震災のニュースが一斉に流れていた。

 マグニチュード9.0の大地震、それに続く大津波、そして福島原発の予断を許さぬ事故と、なんとも形容できない出来事が次々と報道されている。

 まるで小松左京の『日本沈没』のような、旧約聖書「創世記」のノアの方舟のように、人間は自然の猛威の前には、こんなにも、はかない存在なのだろうか。だが原発事故は違う。人間がつくった「安全」とされる人工物の、あってはならない人為的な事故なのだ。

 朝のテレビが、津波にさらわれた車に乗った母を必死で探す小学生の息子と祖父と伯母を追いかけていた。無数の車の残骸の中から、奇跡的に母の車を見つけ出すのをカメラがとらえた。絶望的なことはわかっている。そのとき、小学生の男の子が、「もしも、お母さんでなくても、助けなければね」というのを聞いてグッと胸をつかれた。通報を受けて救急車がやってきた。遺体を搬送する救急隊員の慰めの言葉に、その子の伯母は、「妹に代わって残された者を守っていかなければ。今は泣いてなんかいられない」と答えていた。

 千葉県に住む娘と7カ月の孫娘は、たまたま京都に帰っていた。娘の夫は、その夜、首都圏の交通が全線ストップのため、飯田橋から船橋まで歩いて帰った。隅田川と江戸川の鉄橋を渡って帰宅したのが夜中の2時。その間、ケータイはつながらない。朝方、届いた無事のメールにホッとした。そういえば彼は、9・11の時も、アメリカに滞在中。ニューヨークの近くにいてニアミスを経験していた。

  20年前、京都と北海道の大学生だった二人は上海で知り合った。1年後、娘は蘇州大学へ留学。大阪の築港から貨物船のような「鑑真号」で中国へ旅立った。国際電話は時々不通になる。ようやくつながると寄宿舎のおじいさんが階段を昇ってドアをトントン、「電話だよ」と伝える。しばらくして「不在(プーサイ)」と、のどかな返事が電話口から返ってきたものだ。

 帰国を前に彼は蘇州に向かう。節約のため、北海道から青函トンネルを抜け、青森から東北自動車道を長距離バスで成田へ。2月の酷寒。大雪でバスが延着。成田に着いたら飛行機は飛び立った後だった。中国にいる娘に連絡がとれないため、京都の私の家に電話がかかった。「僕、もう、行くのを諦めます」「何言うてるのん、ロビーで夜明かしして明日の便で行きなさい」と、どやしつけた。娘からの電話に、彼の伝言を中継する。翌朝、関東で地震があったらしいが、無事、彼は飛び立った。

 私の20代はもっと古い。国内の遠距離恋愛も手段はラブレターのみ。2年間に200通のラブレターを書いて、返ってきたのは70通だった。

 その20年後、別れるために荷物を整理していたら、屋根裏から出てきたラブレターの束はすべて、ネズミに齧られ、ボロボロになって消えていた。

 災害の後、被災者にとって一番大事なのは情報だ。電話やケータイがつながらなくても、今は、twitter やFacebookが有効だという。

 生き延びることができた人は、どんなことがあっても生き抜いていかなければいけない。「オズの魔法使い」のように「知恵」と「勇気」と「ハート」をもって、つながるための方法を、みんなで考え、それを実行に移していかなければ、と思う。

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カテゴリー:旅は道草

タグ:東日本大震災 / やぎみね

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