原発ゼロの道

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[WAN的脱原発](4)「悼む」ことができない 早田リツ子

2011.06.22 Wed

2011年4月1日は、春めいた陽光が降り注ぐ美しい日でした。目の前にそびえ立つ比良の頂には雪が残っており、山すその桜はまだつぼみで、光の中をひんやりとした風が吹き渡っていました。わたしたち南の三人は琵琶湖大橋を渡り、湖西に住む友人は南下して、ちょうど中間にある若いご夫婦の営む海鮮料理のお店で落ち合いました。

福島出身の西の友人に聞くと、故郷には濃い親戚はもういないけれど、知り合いにつながる誰彼が亡くなったり避難生活をしているということでした。南の友人の一人は新潟出身で、先年の大地震や柏崎刈羽原発の火災の記憶もまだ生々しく、今回の大災害に続く原発事故は誰よりも身につまされる事態なのでした。わたしたちは彼女が帰省するたびに見聞きしてきたこと、「原発マネー」が故郷を荒廃させ、住民の間に無用な緊張や対立を生み出したことを逐次聞いてきました。

わたしたちは琵琶湖の西と南に住んでいますが、隣県福井には原発14基が集中し、おまけにトラブル続きの高速増殖炉「もんじゅ」もあります。万一福井で事故が起これば、「近畿の水がめ」は30~80キロ圏内にすっぽり入ってしまいます。久し振りの出会いは必然的に「原発は即時停止→全廃炉」を語り合う会となりました。

わたしは「3.11」以降、常に心の半分を東北に引っ張られたままです。あの日の地震と津波の凄まじさにはただただ呆然とするしかありませんでした。しかし心のどこかには、人はそれでも生きていくしかないのだという絶対的な諦念があり、人はその中から必ずや再起を遂げるだろうというほのかな希望は常に残されていると思うのです。だからこそ、その希望に寄り添うために、誰もが何か役に立ちたいと願うのではないでしょうか。

けれど東電福島第一原発の事故は、まったく異なる位相の、取り返しのつかない状況を生み出してしまいました。危険性を訴える研究者の警告を無視し続けたあげく、技術過信の驕りの上に自ら招き寄せた恐るべき災厄…。その絶望的なまでの回収不可能性に心底打ちのめされました。それは、被災した人々の生き延びようとする意志の上に、暗く重く立ち込める暗雲を吐き出し続ける。比喩的にも現実問題としても、ついに「砂上の楼閣」は崩れ去ったということです。

コトここに至ってようやく、安全神話にだまされていたと気付いた人たちも多いことでしょう。しかし政・財界、その他何らかの利益に預かる人たちは、この期に及んでなお、「更なる技術革新による安全性の向上」を主張し、原発稼動を継続しようとしています。

「砂上の楼閣」。今から40年も前になるでしょうか。当時の工業化の進展はめざましく、物質的豊かさと科学技術がもたらす利便性に対する手放しの礼賛が社会を覆い始めたころ、わたしはこの言葉を脳裏に刻み込みました。そのころ出会ったひとりの真摯な研究者(PCB問題や食品公害を告発した)の言葉でした。

大規模な公害問題や食品公害が多発し、農業の荒廃が進みました。いつの間にか市場は安価な石油製品に席捲され、子ども用の玩具や食器すら、何が溶け出すかわからないプラスティック製品に置き換わった時期でした。粉ミルクに砒素が混入し、豆腐にさえ発ガン性のある防腐剤が添加されていました。こともなげに行われる米ソの大気圏内核実験によって、世界中に放射能雨が降っていることも、すでに身近な現実となっていたのです。

けれど一方で「一億総中流」などという言葉がもてはやされ、足元の深淵はますます隠されていきました。中流だなんて眉唾ものだと疑いながら、けれどなんとなくそれらしくもある自分の暮らしぶりに、いつも居心地の悪さを感じてきました。そのころを思い返すと、常に「空疎な明るさ」ということを感じていたように思います。光と同時に胚胎されたものを知って以来、わたしの心の中に兆した不安は一度も消えることがなく、そしてついに、外在する黒々とした現実としてその姿を露わにしました。

ふと思いついて机上の辞書を引くと、「砂上の楼閣」は「永続きしないものごと」「実現不可能な計画」のたとえ、とありました。二つながらなんとピッタリ言い当てていることでしょう。わたしたちの享受した永続性のない見せかけの豊かさは、根本的に「絶対安全」なんて不可能な原子力発電所を、こともあろうに地震列島の上に立地するという無謀さ、というか愚かさによってささえられてきた、つまり「砂上の楼閣」の上に建てられた「楼閣」だったということです。

総中流などという楼閣はあっという間に瓦解しましたが、今やその土台の楼閣も崩壊しました。ヒロシマやナガサキで起こったことを知っていれば、「核」を手なづけ利用しようとすること自体の非科学的(とあえて言いたい!)な驕りと、この世に現出させてはならない「死の灰」とその永劫性に思い至るはず。ただ地中深く埋めるしかないという「核のゴミ」を考えただけでも、わたしは気が遠くなりそうです。

特別な活動をしてきたわけではありませんが、もちろんわたしは、原発は「あってはならないもの」と考えています。その昔、幼い子どもをとりまく有害物質の氾濫に気付いて立ちすくんだことを思い出しました。若い人たち、とりわけ福島の子育て世代は、今この瞬間も、わたしたちのころとは桁違いの不安に苛まれていることでしょう。「大丈夫!」などと安易な言葉をかけることはできません。

4人で語り合ったあの日からあっという間に時は過ぎました。その間、きちんと片付けてこなかった「宿題」を次々と目前に突きつけられているような、とても落ち着かない気分が続いています。そして忸怩たる思いが日々募ります。

原子力発電を強引に国策として推進してきた政治家、安全のお墨付きを乱発してきた専門家、濡れ手に粟の莫大な利益を上げてきた電力会社や関連企業は、この事態に遭遇して何を考えているだろう?などと問うのもばかばかしくなりますね。けれどこのような無力感もまた怖い! 圧倒的な無力感が思考停止につながる時、わたしたちは危険な方向を自ら選択してしまう可能性があるからです。

一人ひとりの被災者の困難、ヒバクという言葉と実態の日常化、漏出が続く放射性物質、事故現場で苦闘している作業員たちの健康、未曽有の混乱の陰でうごめく危うい政治動向も…etc. 気がかりなことが噴出している現状に思いは裂かれ、夥しい死者に対して、わたしはまだ心静かに「悼む」ことができないでいます。6月14日現在の大震災被害者数は、「死者1万5429人、行方不明者7781人」…。これらの人びとに対して、わたしたちが心からの哀悼を捧げることができるとしたら、それは最悪の事故を起こしてしまったこの国が、脱原発を明確に宣言する時以外にありません。

関連エッセイ
岡野八代「安全保障と原発、安全神話の原点」もぜひどうぞお読みください。

カテゴリー:脱原発に向けた動き

タグ:脱原発 / 原発 / 早田リツ子 / 福島県