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『コクリコ坂から』  ノスタルジーの先にあるもの 伊津野朝子[学生映画批評]

2011.08.26 Fri

建物の構成が実に美しい。カルチェラタンに海と妹の空が初めて足をふみいれたとき画面は入り口から天井までゆっくりと映し出す。すみずみまで物にあふれ緻密な構成に息をのんだ。公園や緑地の設計を以前していたという吾朗監督の空間をつくる力は見事に実を結んだといえる。

 女の都であるコクリコ荘と男の都であるカルチェラタンは物語の象徴でもある。この2つの舞台を中心に物語はテンポよく進んでいく。淡い恋物語かと思わされ、『耳をすませば』を一瞬想起させる。

 しかしこれはそんなノスタルジーを堪能する物語ではない。『コクリコ坂から』は63年の横浜が舞台。ヒロインの海は亡き父の帰りを待ち、彼女が恋をする俊は新聞部の部長で文化部の聖域カルチェラタンを守るべく学生闘争を先頭に立って押し進めている。

 この様子から63年という時代性、歴史性がはっきりと画面には現れて、ノスタルジーを超える時代のリアリティを強調していることがよくわかる。『耳をすませば』の全体にあふれる懐かしさとは対極にあるといえる。

 そして海と俊の最大の秘密が二人の父親の存在である。もしかしたら二人は兄弟かもしれない。その問題が発覚した頃から物語は急速にスピードアップし坂を上がったり下ったりと画面が動きだす。この動きが『コクリコ坂から』の最も魅力的なところであり観客の心をわしづかみにする。

 圧倒的な父性の物語だといえるこの作品は母親の不在をも強調する。確かに海にも俊にもそれぞれ母親はいるが、海の母親は家を空けることが多く俊の母親は映画の中では顔をみせることはない。この母親の存在の薄さがより一層ジブリの中に登場する印象的な母親達を想起させ観客を困惑させる。

 例えば『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』では子どもへの愛に満ちた理想の母親である。一方『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』の母親といえばどこか子どもに冷たい感じがする。様々ではあるが必ずといっていいほどジブリの母親像ははっきりと描かれており、このことが観客を安心させたりもする。

 しかし今作は母親が曖昧でとても異質だ。これこそが宮崎吾朗監督の描きたかった世界かもしれない。これまでのジブリとは違う父性中心の物語。吾朗監督の父親である駿監督のどの作品にもない強い父性がここには存在する。

 全体を包み込む音楽もまたこの物語の魅力の一つだ。冒頭の「朝ごはんの歌」は擬音語と単純な歌詞がとても心地よく、日本語の美しさにまで気づかされる。そして海の家族がテレビを見ているときにそこから「上を向いて歩こう」が流れてくるが、これは戦後の近代化を最も象徴するもので、この時代の彼らの一部になっている。音楽が海と俊を希望のある方へ導き寄せ、物語の骨格をつくっている。

 全体にあふれる寛容さと音楽と若い彼らの表情。最後まで全く飽きることはない。

(日本大学芸術学部・映画学科・3年・伊津野朝子 いづのあさこ)

『コクリコ坂から』公式HPはこちら

(宮崎吾朗監督/日本/2011)

(c)2011 高橋千鶴・佐山哲郎・ GNDHDDT

全国東宝系にて公開中

カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:くらし・生活 / 映画 / 伊津野朝子 / アニメーション / 邦画