2011.10.23 Sun
ヴィスコンティの映画、「ベニスに死す」のニュープリント版を、銀座テアトルシネマで見た。原作は1912年に発行されたトーマス・マンの同名の中編小説、彼自身のその前年の体験に基づいている。
ダーク・ボガード演ずる、人生も仕事も容貌もくたびれ果て、元々の性質が更に悪化したがごとくの頑迷至極のドイツ人芸術家が、静養に訪れたベニスの高級ホテルでポーランド貴族の美少年に出会う。このおじさんは、彼に恋こがれるものの言葉もかけず手も触れず、ホテルでときおりすれ違うたびにどきどきしたり、市街を散歩する少年をさびしくつけまわす程度のへなちょこストーカーぶりで、あげくの果てに疫病の流行る当地に少年に魅かれてとどまり、頓死してしまう。全編に流れるマーラーの交響曲とともにベタさはいやまさるけど、美少年タジオを演じたビョルン・アンデルセンの超絶的美しさを堪能しながら、「耽美だよねえ・・」と映画館を後にする。
しかし、帰りの電車の中で、様々な疑問質問で自分の頭がいっぱいになった。浜辺で、もはや現実とも幻想ともつかない美少年の姿を追いながら、早く帰ればよかったものを彼に執着していたが故にそこで死ぬはめになるおじさんの人生は幸せだったか否か、彼が少年に見た永遠の純粋性や美は、存在しうるのかはたまた彼の幻想なのか、また、凡庸さを超越できないように作中描かれているおじさんの、美への憧憬、その追及の身を賭しての執拗さ、それが彼の凡庸さとどう関連しているのかあるいは彼は本当に凡庸だったのか、などなど。
優れた芸術作品というのは現実のレプリカであるがごとく、複雑に、さまざまな層で、色んな解釈の下に、あるいは解釈不能性の下に、はしばし楽しめる。どうもヴィスコンティの映画って「地獄に堕ちた勇者ども」なんかもそうなんだけど、もうかなり昔の映画であることは差し引いたとしても構想や舞台装置の割りになーんかチープな感じがぬぐえないのだが(ちょっとメロドラマぽいんですね)、結局のところかなりの魅力がある、と、言わざるをえない。
ところで、ヴィスコンティも、ダーク・ボガードも物故したが、71年の本映画撮影時16歳だったビョルン・アンデルセンはまだ存命。ネットで探せば現在の写真も出てくる。50代後半の彼は自然の流れで相応の容貌にはなっているが、そこで、結局の処つかのまの美に殉じて死ぬ主人公は幸せだったか否か、と再び考えたり。美はその感受においては永遠なのだ、とかロマンチックな言いざまもできるかもしれないけどね。
さて、以前自分の美術の師匠であった高名な方がいつもおっしゃっていたのは、芸術作品には「謎」がなければならないということだ。確かに、絵なんかは一旦自分のものにして壁に掛けなどすると比較的長い間眼にする。だから、見た、わかった、という絵より、意識的無意識的に解けない謎をめぐって頭が回転するものの方が、位が高い、ということだ。
原作、この映画、そして終わり際に少年がベニスの街角で見せる、0.5秒程の間に無表情からかすかな微笑みに変わる表情の、そのあわいがとらえがたいように、芸術作品もまた、芸術作品であれば必ず、とらえがたいものであるはず、というのがこの映画を見た自分の、教訓。
――是蘭
ニュープリント版予告編:
https://www.youtube.com/watch?v=-bPsJ_0TNyg
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カテゴリー:新作映画評・エッセイ
タグ:同性愛 / LGBT / 是蘭 / ルキノ・ヴィスコンティ
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