エッセイ

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「慰安婦」問題 その⑤: シンポジウム午後の部 概要 和田昌也

2012.04.01 Sun

お待たせしました! 3.10 「「慰安婦」問題解決に向けて」シンポジウム午後の部の概要を、和田さんが熱のこもった文章で再現してくれました。

 ・岡野八代「修復的正義―国民基金が閉ざした未来」

「修復的正義」の観点から、国民基金の問題点を剔抉し、有り得べき慰安婦問題解決の方途を提示する。これらは慰安婦問題の最終的解決としての「和解」へと繋がるものである。

まず、「修復的正義」とは、被害者の尊厳回復を中心的理念に据え、被害者自身に自らの傷の回復の在り方を語り出すために「声」を与え、傷つき失われた過去を―困難ではあるが―埋め合わせる「時」をもたらす正義である。

これは、既存の―とりわけ刑法―法パラダイムの核心的理念、すなわち、加害者をいかに罰するか、をめぐる「応報的正義」とは対極の考え方をとる。つまり、「修復的正義」は被害者を、「応報的正義」は加害者を、各々対象とするものである。慰安婦問題の解決において重きを置かれるべきなのは、あくまで被害者の尊厳回復なのである。しかし、国民基金を例にとっても、じっさい日本政府の対応はそうはなっていない。

国民基金のデジタル記念館(WAMの展示との対照性!)が示すのは、以上の点を失念して、自国の「法的責任」の回避は言うまでも無く、「道義的責任」を果たさんと、補償問題の「慈善」事業への還元に忙しい日本政府の不誠実極まりない態度である。

ここには、被害者は存在せず、奇妙なまでに、国民基金の役者は日本政府と国民なのである。これは甚大な倒錯であると言わざるを得ない。

今後日本政府に求められるのは、被害者を記憶するための施設や教育による「真実を伝えること」を通じた被害者の尊厳回復に向けた着実な歩みであり、補償の方途としては、例えば「物質的な補償」「法的・医学的・社会サービスを通じたリハビリ」「制度改革を通じた再発防止」である。

これらは決して一度きりの賠償とはならない。「和解」とは相互行為なのであって、これらの賠償の継続性にのみ、「和解」の可能性が存するし、ひいては日韓両国の真の「関係」が醸成される契機ともなろう。

・朴裕河「問題はどこにあったのか」

要点は二つある。一つは、慰安婦問題をあくまで日本による植民地支配の文脈でとらえること、二つは、慰安婦問題を巡って主張を戦わす各陣営が没交渉であったことである。これらを確認したうえで、慰安婦問題解決の糸口を探る。

一点目の、植民地支配の文脈で慰安婦問題を捉える意義としては、例えば次のようなケースを考えた場合に見えてくる。それは、一部の慰安婦が日本軍の看護士として働きながら同時に慰安婦でもあったような事実は、志願という、消極的なかたちであれ「自発性」が見られることを示している。

しかし、それはあくまで日本による植民地支配という文脈内での自発性であり、純粋な性格のものではないということである。

また、慰安婦の募集に際する日本軍の関与の「直接性」の如何をめぐっても、それは民間業者への委託という間接的な関与であったとしても、植民地支配という「統治」の側の論理としては、むしろ直接的な強制連行よりも間接的な民間への委託の方がより安定した支配が可能になる点においても好都合である。

いずれにせよ、そういった「統治」を可能にした論理構造内で行なわれた慰安所の運営にあっては、その構造を準備した日本に当然の責任が課せられるべきなのである。つまり、これらの点を鑑みれば、慰安婦問題を捉えるうえで、「植民地支配」という審級を設けることで、日本政府の責任回避を食い止めることができるのである。

二点目は、慰安婦問題の解決を目指す市民運動側とリベラルな知識人が日本政府を非難する際、反発する保守陣営に対して、直接的に批判を差し向けるのではなく、国際的な連帯に訴えかけるかたちでの解決法をとった。そのため、結果的に両者が歩み寄る契機が生まれないまま、慰安婦問題をめぐる国民的同意が得られず、この問題を解決するに至らなかったのである。

これらの点を鑑みれば、慰安婦問題解決の糸口として、まずは植民地支配という観点を慰安婦問題において確立し、そうすることで日本政府の責任逃れを回避すること、そして益々保守化の一途を辿る日本社会の状況にあっては、国民やメディアも含めたトータルな議論空間を形成すべく、革新陣営が力を発揮すべきであること、これらのことが考えられるだろう。

・戸塚悦朗「和解の条件―真実とプロセス―」

弁護士であった自らの経験から、慰安婦問題解決のこれまでの失敗の要因を、真実に基づき、誠実なプロセスを経るよう努める労を惜しんだところに求め、最終的解決としての和解に向けた条件提示を行なう。

具体的な和解の条件としては、①双方向性:相手方を理解するための誠実な協議が必要

②真実:正確な情報に基づき、双方の間に信頼性を築くこと

③調停者の存在:裁判所のような第三者を置き、双方の密接な協議を実現させる

④被害者全体との和解:集団事件の場合、一部ではなく、あくまで全体との和解に至ることの重要性、等々がある。

これらの条件からみれば、日本政府側の姿勢に、一方的な和解案の押し付けや曖昧な情報に基づく交渉、第三者としての国連人権機関等の働きかけの軽視等、さまざまな問題点が浮き彫りになる。

以上のことから、日本政府は従来の態度を改め、誠実な対応を為すべきことが明らかである。その誠実さこと、和解への第一歩である。

感想―「子供の政治」から「大人の政治」へ―

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. 或る人は子供のうちから「大人」になりたいと思って育ち、また或る人は「大人」になるよう育てられてきただろう。しかし、その「大人」の定義は人によってまちまちである。果たして、この、「大人」になる、とは如何なる状態を指すのだろうか。

かつて哲学者イマニュエル・カントは「啓蒙とは、人間がみずから招き、従ってまた自分がその責めを負うべき未成年状態から脱出することである」と説いた。この未成年状態とは「他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態」を指す。ここでいう「啓蒙」とはわれわれが先に述べた「大人」を指すものと解したいが、いずれにせよ重要なのは、大人になるためには、すなわち未成年状態を脱するには、その第一歩として当の未成年状態を「みずから招いたもの」であることを知り、その責めが自らにあることを自覚することである。

このような考え方からすれば、各人の現状が「大人」であるか否かはいざ知らず、我々が送りだした政治家の営む現状の政治が明らかな未成年状態、すなわち「子供の政治」であることが分かる。なぜ代々の政治家たちが述べて来たように「解決済み」のはずの慰安婦問題が依然として「問題」となるのか。上記の三人の議論からも、この状態が「みずから招いたもの」であることは判然としている。

では、「子供の政治」が「大人の政治」になるためには如何にすればよいか。

現状の日本の政治は代議制で或る以上、我々有権者は「大人の政治」を担える政治家を選ばなければならない。逆に言えば、現状の政治が「子供の政治」であるのは、我々が選ぶ政治家を間違っているということ、つまりそれは「みずから招いたもの」となる。他方、政治家の方もまた、利害得失を巡って各方面の関係者の指導を仰ぐのではなく、正しくあらねばならない。

もし、皮肉なことに、自らを選んだ有権者が未成年状態にあるならば、自らだけでも政治に課せられた責めを自覚し、「大人の政治」を担っていかなければならない。ここに我々有権者と政治家が未成年状態から脱して「大人」になることと、「政治」の接点がある。

「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」とはよく言ったものである。

これは慰安婦問題が長引いていることの一定の本質を得た言でもあるように思われるが、現状では慰安婦問題の解決が必ずしも再選に繋がるわけではない以上、政治家と、彼らを支えるわれわれ有権者は、カントがホラティウスとともに次のように告げる言葉に耳を傾けなければならない。

「敢えて賢こかれ!Sapare aude」








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