2012.06.02 Sat
<マイウェイ>
「第二の性」を手にした10代の頃、フェミニズムに触発されたはずだったが、私の生き方はフェミニスト的などではなく、ご都合主義だったのかもしれない。少し疑問を感じながらも、20年ほどは“専業主婦”だった。期待される活躍の場のPTAや学校ボランティア、自治会や地域活動が中心の毎日だった。そしてもちろん家族のケア。そうした典型的生活にそれなりの充実感を感じながらも、学校や行政担当者から都合よく扱われ、「お母さん」とか「母ちゃんたち」と、時に呼ばれ、なんともやりきれない思いもした。同時に、ボランティア活動の過度な滅私奉公的な期待が嫌気になっていた。段々、そういう生き方からの脱出願望が強まった。
<仕事とライフ>
そしてやっと10年ほど前、非正規で非常勤ではあるが、それまでの活動を活かす社会教育分野の仕事に辿りつくことができた。残念ながら特別な資格もスキルもなく、売りは社会活動だった。それまでの経験を生かしながら、結構順調に4年間、仕事を続けたところで、夫の転勤で中断した。迷ったが、高校生のいる家族がバラバラで暮らす選択はしたくなかったので、仕事をやめた。再び戻ってきたこの地方都市で、男女共同参画の非常勤の仕事に応募し、採用され、毎年面接を受けながら、3年が経った。今年の春から4年目に入るつもりでいたが、なぜか不採用になってしまった。
<非正規労働の悲哀>
この3年間、雇用条件には正直、かなり不満があったが、“やりがいに搾取”され、雇用のあり方の疑問にしっかり向き合うことなく、ひたすら一生懸命、働いてきてしまった。残業手当もないのに、上司が帰っても遅くまで残業し、他を犠牲にしてきた自分が愚かだったということになるだろう。職場には、正規職員との間に不合理なさまざまな差別や不都合や不自由があった。採用も毎年公募で、応募書類と男女共同参画の作文を提出し、他の応募者と全く同様に面接を受けるそのやり方にも、本当は少し違和感を感じていた。
ただ仕事は面白く、やりがいを感じていた。新しい企画をどんどん立て、参加層の増加をめざし土日の講座を増やし、チラシやテーマの工夫もした。努力の結果は数字にも現れてきていた。やりがいに気を取られ、きちんと公正な仕事のあり方に向き合わないまま、目をつぶり、今年も上司に勧められるままにこの職に応募した。直属の上司は私を採用したいようだったのに、不採用になり、私は当惑した。不採用を知ってから2週間ほどの間の勤務はきつかった。親しい人たちはその結果に驚き、何があったのかと度々、聞いてきた。
<個人情報開示請求>
「面接で雇用条件について聞かれたとき、率直に厳しいことを言ったからかなあ? わからない。誰かに嫌われたかなあ」というような言葉しか浮かばなかった。日が経っても自分の不採用の理由を知りたいという思いが収まらず、とうとう、審査の過程や理由について自身の個人情報開示請求をすることにした。
100%満足の結果が出ないのは予想していた。しかしそれにしても、一部開示として開示された情報は、ほぼ真っ黒にマスキングされたものだった。行政の論理で理由は確かに示された。でも私には納得できなかった。単に墨を塗り開示したというやり方の誠意のなさと傲慢さに、とても悔しく感じた。「ご不満なら異議申立てという方法もある」と言われた。
<異議申立て>
できる範囲でいろいろ調べたが、行政不服申立ては数年間、前例がなかった。迷った。でもやはり、この墨塗りはないだろうと思い、自分なりに法律と関係文書を調べて異議申立書を作成し、やっと提出した。
<補正命令書>
ゴールデンウィークの直前、突然書留が届き、「異議申立書を二週間以内に補正せよ」という命令書が入っていた。申立書提出時になんの説明もなかった命令書を受け取り、自分が何か違反をしているように感じた。行政不服審査法は、誰の為の法律なのか。
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