2012.08.15 Wed
地域に見る光と影
25年前、私は多摩市公民館で行われていた女性学級というところで、『女性学』の学習を1年間継続で学ぶ機会があった。
その授業の中に、当時としては「斬新」としか考えられない『訪れる高齢化社会危機』という授業が、なぜか女性学の中に入っていた。人口動態統計から予想される高齢者人口、そこから派生する年金や社会保障、老人医療、看護(介護保険はまだなかった)、また、老人だけの団地となることの問題(多摩ニュータウン)・弊害・その風景などを、医療・統計・社会学・地域コミュニテイを切り口として問題提示していた。
今の状況認識のままでいけば早晩日本経済において年金は破たんし、病院は老人患者により満床となりあふれかえり、他の緊急的患者の搬送や入院が滞るようになるだろう。緊急に意識変革や財政の立て直しと改善を図っていかなければとりかえしがつかない、という授業内容であった。しかし、25年前の私はなんの危機感も感じない意識レベルで、ただ、ぼ~ときいていただけの老人候補生であった。
危機を繰り返し力説していた貴重な講師の方は、今はすでにいない。今、急に降ってわいた超高齢社会問題なのではない、あれだけ警鐘を鳴らしたではないか!と、講師は天から歯ぎしりをして悔しがっているだろうか。
同じ頃、多摩市では老人専門病院の建設が話題をよんでいた。建設予定地近くの町内会住民が反対運動をおこしたのだ。理由は、病院から亡くなった老人の棺が運ばれ出ていく光景はみたくない、というものだった。
しかし、「老人病院」の機能を持つ拠点が今こそ必要なのだとする、病院長の天本宏さん(その頃まだ40代)の説得はこうだ。
病院は患者の入院は極力させない。患者は家庭で看とることを基本とする。病院は看護婦と医師を家庭に派遣・訪問し、必要な医療のため、家で看る家族に対し治療支援や教育を行っていく、と。
それはこれまでにない医療のありかたであり、発想だった。
開院してからは患者は老人に限らず、小児科以外、誰でも受診ができた。外来に通院可能であれば、その間は通院し、通院が困難になると、一度受診した老人は家に居ながらにして治療を受けられた。患者の家々を回る天本病院の訪問診療車は瞬く間に市民の間に溶け込み、認識されていった。
数年後に沖藤典子さんが「介護保険とは」の講師で来た折、つぶやいた。多摩市はうらやましい。こうして地域家庭と医療が繋がっている天本病院があるなんて、他の自冶体が目指したくてもなかなかできないことだ。反対運動があったなんて信じられない、と。
光をみる①
私は、40代頃から毎年定期健診をこの天本病院(現・あいクリニック)で受ける事にしている。老人になり自分に何か病変があって運ばれたとき、この病院に私のこれまでの検査成績や検診結果が記入されたカルテが保管されていることに、信頼と共に安心感を持つことができるとおもったからだ。現在、多摩ニュータウンの高齢化は著しい。天本病院の現在は、在宅ケア・訪問看護ステーション、包括支援、デイサービスなど、地域に求められる機能満載の病院となってしまった。
人は他人の老いていく姿は目につくが、自分の老いにたいする想像力は驚くほど低いことがわかった。天本病院の建設に反対した住民ひとりひとりは、今頃何を感じているだろうか?
25年前に、高齢化による問題に先見の目があった「女性学」講師が予想できない問題があったとすれば、急激な少子化とその下降回復がみえない、ということであろうか。
日本における少子化は1950年頃からはじまり、1970年の合計特殊出生率は2.13、2009年1.37となっている。理想とする子ども数と実際に産む完結出生児数がちがうことから考えられることは、男と女の結婚にたいする意識・認識のズレ、社会的な認識のズレ、をあげることができるのではないか。
なぜ子どもを産まなくなったのか?なぜ産めなくなったのか?
女性の就労と子育ての両立がむずかしいからか?それはなぜなのか?
女性は結婚と職業、なぜ二者択一なのか?
そして、なぜ、男性の働き方をみなおすことをしないのか?
男性の家事育児分担がなぜできないものと決め付けるのか?
高齢社会論では、ワークライフバランスの視点をとりあげている。共に家庭を担う二人が同じ労働、同じ賃金の元では、それは可能であるだろう。もとよりその考え方には賛成だ。しかしM字型人生を余議なくさせられる主婦のパートや派遣の低賃金をそのままにしたままで、ワークライフバランスが可能であるわけがない、
男性の家事育児への分担意識が低いこと(日本はなぜいつまでも家事育児は女の仕事、と言い続けるのか)、長時間の会社拘束のため男の家庭参加時間がない(男の甲斐性は仕事、という押しつけ意識のしばり)など、両立・自立のないままのワークライフバランスなど、絵にかいたもちのたぐいであろう。
社会においても職業・家庭生活においても、男だから・女だからというジェンダーで生き方をわけるのではなく、家事育児分担が平等対等になされる社会意識であれば、女は子どもを産むのではないだろうか?女の意思で産むことが決まるのだ。
結婚にいきつくまでは、同じ方向をみて生きてきたはずの男性と女性が、主に出産を機に、生き方や考え方がかい離していく感覚を私は体験であじわった。
「あなたが産んだのだからあなたが(子どもを)みるべき」「そんなに仕事と子育ての両立がつらかったら仕事をやめたら?」
そうではないだろう、そういう解決の仕方ではないだろう?という細かい感情の亀裂が内攻して、女は産むことをやめる。同じ女性からの辛らつな言葉もある。子どもを保育園に入れているという人に、「子どもは母親がそだてるべきでしょ」という。
私が一番くやしいとおもうのは、私と同世代の彼女らのこの言葉だ。
「私たち世代って、一番バイアスが強い世代でしょ? 男はこうあれ、女はこうすべき、という。だからしょうがないのよ、平等とか対等とか言われてもダメなのよ、この世代は」「そうなのよ、そう」。
こういう強固な「だめなのよ先入観」で若い世代を揺り戻しにかかる中・高年世代が何よりも問題なのだ、と私はおもう。次に続く言葉、「今の男性はえらいわよ、育児したり台所にも立つし」と。その数十倍も同じことをしている女性にたいしては、決してえらいとほめることはしない。
ちなみに、児童虐待の取材を重ねている杉山春さん(著書・「真奈ちゃんはなぜ死んだ―ネグレクト」)はいう、「母親だけが子どもを育てるのではない、という意識が社会にあれば、母親の虐待はなくなる」と。
光を見る②
12月に、セカンドステージラウンジ掲示板で私は2枚のチラシを見つけ引き付けられた。『男のダベリ場―年齢・肩書きひっぺがし“男同士”で語り合う―』『集まれ!!男だって介護する―男性介護者の集い―』チラシの主は「かいご勝手連」・宗教・政党・営利とは無関係、とある。
少々「男」に力がはいりすぎているきらいがあるものの、男もすてたものではない、と驚いた。男同士が「かいご」を目的に集いあうことができれば、これまでたった一人で親の介護に向かい疲弊している男たちが集まれるし、話せるし、情報を供用できる。その場を、男たちが男自身の手で立ち上げていたのだ。光をみる。
「家族」の繋がりがなくなり、孤族が増えているという。しかし、一人でも暮らしていけることが普通な社会であることにもっとセーフネットが働きかけ、プラス志向で立ち向かっていいとおもう。「子育て」する男たちがそこで繋がり、人間の暖かいふれあいをもちながら家庭や地域にポジテイブに関わっていくことが、ヒントではないだろうか。
地域に「おんな勝手連」をつくって、共同介護や共同炊事をやるのもいいかな?
カテゴリー:投稿エッセイ
タグ:高齢社会 / 女性学 / ワークライフバランス / 高橋裕子
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