2013.07.10 Wed
・ふらりと立ち寄った街で
「探すのではない、出会うのだ」
かつて、こう語ったのはスペインが生んだ天才画家、パブロ・ピカソだ。子どもの頃から、大のピカソファンである私は、半年ほど前に、ある書籍でこの言葉を見つけた。
人生が出会いの連続であることは、もちろん、私が声を大にしていうまでのことはない。だが、私たちはいつも、何かを探し、ちょっとでも「メリットの多い何か」を得ようとして、目を皿のようにしている。その証拠に、私はしょっちゅうパソコンで検索し、情報を掴むと同時に、常に何かを比較し、自分の欲望と照らし合わせている。
だが、そうした「心が飢えた状態」から、自分自身を解き放ってやると、思わぬ出会いが向こうからやってくると実感した出来事があった。
前回のエッセイで、スペイン・サッカー界の名門、ビジャラアルFCの女子トップチーム監督である佐伯夕利子さんのことを書かせていただいた。
佐伯さんはその実力が示す通り、強い精神力を持った聡明な女性だった。やはり一流のひとは違う…・。私はそう感じれば感じるほど、自分はいったい何をやってきたのだろうと、自分自身の不器用さや要領の悪さ、さらには中途半端な取り組み方で終わっている仕事を顧みないわけにはいかなかった。
後悔するような生き方をしたつもりはなかったが、人生の方向性を決める場面で、あの選択がはたして正しかったかのだろうかと、自らの力不足と状況判断の甘さを痛感し、自分のダメなところばかりが気になりはじめ、気持ちが沈んでいった。
少し、休憩したい…。バルセロナは面白い街だが、騒々しさやスリの危険から身を守るための緊張感が付きまとう。いつも気を張っていなければ、暮らしていけない。佐伯さんへのインタビューを終え、バレンシア州のビジャレアル駅からバルセロナ行に乗った私は、急遽、タラゴナ駅で下車した。
タラゴナはバルセロナから地中海沿いに100キロ南下したところにある。私は無性にタラゴナの街を歩きたくなった自分の気持ちに従うことにした。
・BARのカウンターで知り合って
はじめてタラゴナの街を訪れたのは、もう20年も前になる。駅から10分も歩けば、地中海を一望できる円形競技場や遊歩道もあり、街のあちらこちらにローマ時代の遺跡が残っている。ロマネスク、ゴシック、バロックと様々な様式が見事に混在した大聖堂や博物館など、自分のペースで歩いて行けるのも性に合った。以来、バルセロナに滞在中、何も予定がない日に、日帰りで何度か訪ねたことのある街だ。
今日はここに泊まろう…。そう決めた私は、旧市街にある小さな広場に面した安いホテルの部屋を確保した。そして到着早々、荷物を部屋に入れ、軽い夕食を摂るレストランを探しがてら、散歩に出ることにした。
夕暮れ時は、ひとり旅の寂しさを感じる時間帯でもある。落ち着いて食事のできそうな、雰囲気の良いレストランを数軒、覗いてはみたものの、テーブル席はカップルばかりで、私ひとりで食事をするには気が引けた。
やっぱりBARだな…。BARは日本でいう「バー」とは違い、スペイン語で「バル」呼び、誰でも気軽に立ち寄れる飲食店のことをいう。つまみや軽食の種類も多く、注文してから提供されるまでの時間も早い。
私は30分ほどウロウロしてもレストランが決められず、結局、ホテル近くのBARに入ることにした。すっかりお腹が空いてしまっているだけに、すぐにカウンターに並んだつまみを覗き込んだ。
すると、すぐ近くのカウンター席に座っていた若い女性が声をかけてきた。彼女がどれほどの美形の持ち主か…想像していただくために、有名人に例えるとすれば、30年前のオリビア・ハッセーがぴったりだ。整った目鼻立ち、ストレートでサラサラの髪をなびかせたスレンダーな体型、このままテレビドラマに出ていてもおかしくない。
この場では、彼女の名前を仮に「オリビア」としておこう。彼女は、元イングランド代表のサッカー選手「ベッカム」に似たパートナーとふたりで、ワインを飲みながら小皿料理をつまんでいた(以後、彼のことも便宜上、ベッカムと呼ばせていただくことにする)。
私が美味しい野菜料理を食べたがっていることに気づいた彼女は、店のひとにかわって、メニューの説明をしはじめた。そして自分も野菜中心の食事が好きなのだといい、ぜひ隣のイスに座るように勧めてくれたのだった。
仲睦まじいカップルの邪魔をするわけにはいかない…と、最初は躊躇していたが、彼女がどうしてもというので、私は少しの間だけなら、と思いながら座った。
このようにして、空腹を満たすために、ちょっとBARに立ち寄っただけの私にとって、予想外の展開がはじまった。
私がオリビアと話し始めたことで、ベッカムはBARにいる常連客らしき男性たちと、サッカー談義をはじめだした。ふたりが旅行者ではなく、地元に住み、この店にもよく来ている様子がうかがえた。
何となくスペイン人女性ではないとは感じていたオリビアは、ハンガリー出身で、1年前までブタペストで銀行員として働いていたことがわかった。彼女は、ベッカムと暮らすために、タラゴナに移住してきたのだった。
おそらく年齢は30歳前後だろう。英語、スペイン語、カタルーニャ語が堪能で、しかも若くて美しい彼女は、これまでに数十社の採用試験を受けたが、結果はすべて不採用。外国人がスペインで仕事を探す難しさを彼女は語り、大きなため息をついた。
最近、バルセロナで聴いたところによると、スペインの経済事情は想像していた以上に深刻で、25歳以下の若者の3人にひとりは失業中という状況だ。あきらかにそのせいで、街の繁華街では仕事のない若者が暇を持て余し、アフリカ系のひとたちが路上で偽のブランド品を無認可販売する光景が目立つようになった。経済が低迷したままの現状では、オリビアの仕事がなかなか見つからないのも理解できた。
職に就いていないオリビアは、日頃は家のなかで絵を描いていることが多いのだという。しかも、よく聞いてみると、ベッカムには先妻との間には、5歳と3歳の女の子があり、この子たちが、休日のたびにやってくるのだ。
スペインでは離婚後も両親が協力して子どもたちの面倒をみる。子どもたちは父と母の家を行き来しながら成長していく。クリスマスなどの大切な日には、元夫婦も肩を並べて、家族みんな一緒に食事をするのは「常識」なのだ。
一度、離婚をしてしまえば、両親のどちらかが子どもの面倒を見る場合が多い、日本とは大きく事情が異なる。ベッカムの子どもたちの食事の世話をし、面倒をみるのはオリビアの役目らしく、わがままで偏食の子どもたちに、相当、苦労しているようだった。
・共通の関心事がつぎつぎと繋がっていく
しかも驚いたことに、オリビアとベッカムが出会ったのは、「カミーノ(=サンティアゴ巡礼の路)」だというではないか。「巡礼の旅」は、私が実現させたいと願っている夢のひとつである。いつどのようなカタチで実現できるのか、そのことはいつも私の心の隅にあるからだ。
「カミーノ」の最終地であるサンティアゴ(ガリシア州)は、ローマ、エルサレムと並ぶカトリックの三大聖地のひとつだ。歩くルートはいくつかあるが、一般的にはピレーネ山脈の向こう側、つまりフランスからはじまり、ピレーネ山脈を超えた約800キロのことをいう。
10世紀からはじまったサンティアゴ巡礼の旅は「ヨーロッパの旅の原点」ともいわれている。サンティアゴに行けば、病気が治り、奇跡が起こる。人びとはそう信じ、サンティアゴへ押し寄せた。しかしその後、英仏百年戦争や宗教改革による聖遺物崇拝の否定など、激動する時代のなかで、衰退の一途をたどっていった。以後、巡礼路はひっそりと残されてきた歴史がある。
だが長い年月を経て、1993年に「道」としては世界で始めて、世界遺産に登録された以降、ふたたび注目を集めだした。ガリシア州政府観光局の努力や、巡礼者をサポートする市民活動、一気に進んだ環境整備などが実を結んだ結果でもある。
現在では、人生のパートナーを探すため、つまり異性との出会いを求めて、ひとりで歩くひとたちも多いと聞いている。それだけに、オリビアが巡礼の路の途中で、ベッカムと運命的なめぐり会いをしたのも不思議ではない。
「このひと(=ベッカム)と生きる」と決めたオリビアは、母国ハンガリーでの仕事や暮らしに区切りを付け、タラゴナで新しい人生を踏み出したのだった。
ワインのせいで、透き通るよう白い肌がうっすらと赤みを帯び始めた彼女の横顔を見つめながら、人生を変えた出会いと今の生活の話を聴いていて、私は複雑な心境になった。
キャリアを積んできた仕事も捨て、愛する両親とも遠く離れ、選んだスペインでの暮らし…。だが、仕事はいまだに決まらず、パートナーの子どもの世話に悩まされ、家にこもっている日々。ベッカムは優しい男性だとは思うが、彼女のそれまでの人生と引き換えに選ぶほどの価値があったのだろうか…。余計なお世話だが、私は素直に喜べない気持ちだった。
ちょうどそのとき、上機嫌なベッカムがオリビアと私の間に割り込んできた。
「オリビアが、僕以外のひとと、こんなに話し込んでいる姿を、初めて見たよ」
そして、ベッカムは私に極上のワインをご馳走するといってきかなかった。日頃、口にしている手頃なワインとは違う芳醇な香りを嗅ぎながら、私はふたりの顔をしみじみ眺めた。
良質なワインがからだじゅうに沁み渡る心地よさとは裏腹に、親しい友達もいないオリビアの日々を想うとなんだか切なかった。1年前までは、縁もゆかりもなかったこの街で、彼女はベッカムだけを頼りに生きているのだ。
お酒が入っているせいもあって、彼はますます熱く語り続ける。
「オリビアはほんとうに素晴らしい女性だよ。頭が良くて、きれいで、優しい。完璧だ。僕は幸せ者だよ」
私は深くうなずいた。そりゃそうだろう。私だってそう思っている。だが、内心はオリビアほどの魅力的な女性なら、彼以外にもっといい男性がいるだろうに、彼女がベッカムを選んでほんとうによかったのか…と。
私たちはBARのカウンターで飲み、次ぎ次と食べ、ブタペストの美しい街並みから日本の文化についてまで、様々な方向に話題が飛び交った。気がつけば、3時間以上も過ぎ、もう日付も変わっている。
閉店間際に、私たちは3人そろってBARを出た。誰も歩いていない、真夜中のメインストリートを3人で肩を並べて歩きながら、ほんとうに私たちは、今日初めて会ったばかりだろうか、という気持ちになった。
・交差する時空間の上に、私たちの今がある
翌朝8時、私はホテルまで迎えに来てくれたオリビアの車(正確にはベッカムの所有車)に、私は乗り込んだ。昨夜、彼女が、タラゴナの街はずれにある、古代ローマ時代に築かれた「水道橋」を案内したいと提案してくれたのだ。
いくらなんでも、知り合ったばかりの彼女に、そこまで面倒をかけては申し訳ない。私は何度も断ったが、どうしてもこの橋を私に見てもらいたいといって、彼女は譲らなかった。結局、観光客がやって来ない静かな時間帯に出かけようということになり、朝早くから、彼女が車を出してくれたのだった。
30分ほどドライブした後、ふたりで「水道橋」の周囲の森に育っている天然ハーブの香りをかぎながら、橋に向かって歩いた。オリビアはハーブの種類や、料理の活用法まで詳しく説明してくれる。
「持って帰れるものなら、ここのハーブをたくさん摘んで料理してみたい!」
と私がいうと、オリビアは自分も料理に使うために、よくここにハーブを摘みに来るのだという。
そうなんだ…。ここはオリビアの好きな場所なのだ。この「水道橋」が世界遺産だからという理由だけではなく、自分のお気に入りの場所を私にも見せてくれたのだ。
歩く先に見えてきた2層の巨大な「水道橋」はまさに圧巻だった。クレーンのような機械もない時代に、どうやってこんな巨大な「水道橋」が建設できたのかと、私たちは顔を見合わせた。
そして、実際に水が流れていた橋の上を、1列になってゆっくりと歩きながら、この重い石を担いで運び、組み立てたローマ時代の人びとの計り知れない苦労と遠い時間に想いを馳せた。
25年近く前、私はマドリードから鉄道で2時間の距離にあるセゴビアで、観光名所となっている「水道橋」の実物を見た。それに比べれば、タラゴナの「水道橋」は、周辺に土産物屋などもなく、草木が生い茂る自然のなかに、まるで静かにたたずんでいるようであった。
「私たち、ずっと前から友達だったみたいね」
とオリビアがいう。実は、私も彼女とは同じ気がしていたのだ。彼女といると、必要以上に気を使うことがなく、心がとても落ち着き、穏やかな時間が流れていく。
私はオリビアに、「水道橋」を観に連れて行ってくれたお礼に、昼食をご馳走したいからと申し出た。だが彼女は、工場で働いているベッカムが食事をするために、一旦、自宅に戻ってくるため、手作りの昼食を準備しなければならないのだという。彼の仕事は重労働らしい。
「消化の良い昼食を食べさせ、再び出勤するまで、疲れが取れるように、お昼寝もさせてあげなければならないから」
と、オリビアは私の誘いをやんわりと断った。真面目で繊細なオリビアの一面が、その言葉にも表れているのを感じながら、私は無理に彼女を昼食に連れ出すのを諦めた。私から彼女にしたお礼といえば、1杯のコーヒーと一緒に食べたクロワッサンだけである。
一昨日も、彼女からメールがあり、先月、ふたりで出かけたという自転車ツーリングの写真が送られてきた。その中に、はじけるような笑顔のオリビアが、たくさんの荷物を両脇に積んだスポーツタイプの自転車にまたがって、田舎道を走行している姿があった。
仕事はまだ見つかっていないらしいが、自然を愛するふたりがこうして旅を重ねている写真を見ると、オリビアの人生の選択は間違っていなかったような気もする。孤独に耐えながらも、ベッカムの日常を支え、大好きな旅に喜びを見出している彼女の姿を想った。
私は5年ほど前、仕事の選択をしなければならないと思いながら、どうしても自分のちっぽけなプライドや、長い年月をつぎ込んできた研究を切り捨てることができず、ますます自信をなくしていった。そして、結局は心もからだも病んでしまい、大きな手術を経験した。
タラゴナで出逢ったオリビアは、もしかしたら、BARのカウンターで、ひとりで佇んでいた私の姿に、何か共通するモノを感じたのかもしれないとも思う。
失敗の多い人生を振り返り、あの時の判断さえ間違わなければ、もっと人生がうまくいっていたかもしれないという、自責の念に包まれていた私を、感のいいオリビアは察知したのではとないかとも思ったりもする。
間違いないのは、あの時の私は、何かを探し求めてギラギラとしていたのではなく、自分の心と深く向き合っていたことだ。
いま、私は思う。自分の人生を肯定できなければ、ひととの繋がりをつむぎだすことはできない。たとえ一流になれなくても、有名無名にかかわらず一流だと思えるひと、心惹かれるひとたちの生き方を、しっかりと自分の言葉で伝えていこう、と。
「探すのではない、出会うのだ」といったピカソから、生きることそのものを楽しむ、極意を教えてもらった気がする。
*次回のエッセイは、いつか実現したいと思い続けてきた「巡礼の路」を予定しています。
カテゴリー:スペインエッセイ