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坂上香監督の”トークバック”製作ノート(4)

2013.07.31 Wed

坂上香監督の“トークバック”製作ノート(4)

第4の壁

 

                                                坂上 香(ドキュメンタリー映画監督)

 

私たちは単純化されたり、抑圧的ではない連帯を、いかに実現することができるでしょうか。複雑なものを複雑なまま、そして自由な発想で、いかにつながりあうことができるでしょうか?

               アンジェラ・デイビス(思想家・活動家)(1)

 

 現在制作中の映画「トークバック 女たちのシアター」は、サンフランシスコの女性短期刑務所で生まれたマージナルな(周縁を生きる)女たちの劇団「メデア・プロジェクト:囚われた女たちの劇場(The Medea Project: Theater for Incarcerated Women) 」についてです。2006年、私はこの劇団に「アーチスト・イン・レジデンス」という肩書きで関わりました。今回は前回(3)に引き続き、当時つけていたフィールドノーツを参考に、映画企画に踏み出す前の助走段階を綴ります。

 

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KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA 2006年11月5日、女たちの劇団メデア・プロジェクトのオリジナル戯曲「コンクリート・ジャングル」がサンフランシスコ市内のロレイン・ハンズベリー劇場で、千秋楽を迎えていました。(2)でも紹介しましたが、 ナイジェリアのエイモス・チュツオーラの作品をベースに、悪霊が棲むコンクリート製のジャングル(都会)から逃げ延びようと必死でもがく少女たち(受刑者たち)の話です。

 舞台に立つ女性たちはいずれも顔見知りのはずなのに、全く別人に見えます。劇自体も完成度が高く、2ヶ月前のリハーサル時からは到底想像できないレベルに鳥肌がたち、何度も涙が流れました。

 2、3回目になると、見たことがあるような、聞いたことがあるようなシーンに出くわしました。たとえば刑務所でのリハーサルでは、ラップにあわせてworrier dance(闘志の踊り)というヒップホップを、プロのダンサーが振り付けていました。ヒップホップにも歴史やスタイルがあること、西海岸とそれ以外の地域ではスタイルにも大きな違いがあること、争いにも暴力を行使するのではなくダンスを使うという考えがあるのだということを聞き、私自身受刑者の女性たちと顔を見合わせて驚いたものでした。ラップミュージックにあわせてダンスで相手を挑発しあうというエクササイズもあり、私はその様子を映像で記録していました。本番ではラップではなく、ソールフルな音楽があてられていて、しかも闘志の踊りに手が加えられていたため、それと気づくまでに時間がかかったのです。

 演者である受刑者の女性たちの声や踊りにも、磨きがかかっていました。リハーサル時にはやる気なさげだった白人のデイナは、激しいリズムにあわせ、身体をフルに使って「亡霊」を踊っていました。「デイナ、うろうろすんじゃねぇ!」という父親の怒鳴り声が舞台のあちこちから聞こえてきて、その声に未だに怯え、囚われている彼女が浮き彫りになります。

 ネイティブ・アメリカンの血が流れるレイラは、ナバホとしてのアイデンティティを誇り高く表現していました。幼い頃からアルコールや薬物に囲まれて育ったことを、ナバホの踊りに絡めて語るのです。そして最後に“All my relations(私につながる全ての関係)”としめくくり、会場にスピリチュアリティーを漂わせていました。

 メデアの活動拠点である短期刑務所は、刑期が1年以内の受刑者、もしくは係争中で刑期が未定の被告人が対象なため、リハーサルの途中で釈放されることも珍しくありませんでした。釈放後は音沙汰がなくなる人が圧倒的に多いなか、継続的に関わる人もいます。黒人のダーリーンは、釈放後に市内にあるメデアの事務所に顔を出していました。この舞台では、立派に自作の詩”This is my last run. Or I am dead(「今逃げるか、それとも死ぬか」)を読み上げ、血気迫るものを感じました。子どもの頃から日々親からの虐待に耐え、成人してからも付き合う男性たちから暴力を受け続けてきたダーリーンは、実際に何度もそんな局面(「今逃げなければ殺される」と思う状態)に立たされてきたのです。私が刑務所に通っていた頃はまだ多くを語れなかった彼女が堂々と台詞を言う姿を見て、短期間の成長ぶりに驚かされました。

 白人ギャングに所属していたタニヤも、両親や養親からの虐待の連鎖について踊りや歌で堂々と表現していて圧倒されました。上演の数時間前に、劇場近くを歩いているタニヤを見かけたのですが、 オレンジのジャンプスーツを着ているわけでもなく、どこにでもいる「普通の若者」にしか見えない彼女の横を、彼女とは気づかずに通り過ぎそうになりました。舞台の後タニヤに声をかけてみると、「自分の人生のほんの一部を表現できたけど、でもまだまだ出し切れていない。まだほんの序の口….」と肩をすくめました。

 そう、彼女の言う通り。一回舞台に立ったからといって全ての問題が解決するわけでも、過去が消えてなくなるわけでもありません。むしろ、舞台という非日常的空間での興奮と刑務所という厳しい現実とのギャップに苦しむこともあると、先輩格の女性たちから聞いたこともあります。けれども、タニヤの言葉からは、現実の厳しさと同時に、希望も感じ取れました。

 長期関わっている元受刑者もいます。当時はフィーフィーという黒人とアンジーという白人の2人が関わっていました。フィーフィーは1990年代初旬から、アンジーは1998年からメデアにつながっていて、初めて舞台に立つ女性たちとは経験もオーラも違います。ダミ声のフィーフィーは登場するだけで迫力があり、アンジーはスパイスの利いた表現で観客をわかし、2人共光輝いていました。舞台を実際に見て、「舞台で人生を取り戻した」と自信たっぷりに言うアンジーの言葉が身にしみてわかった気がしました。

 さらに「コンクリート・ジャングル」には、アンジーの16歳になる息子ジョセフも特別出演していました。アンジーからは息子が何度も補導され、少年院にも入ったことがあると聞いてはいましたが、息子が直接発する台詞には胸をえぐられました。

 4歳の時に母親が刑務所に服役し、薬物依存症で暴力的な父親の元で暮らしたこと。誰もご飯をつくってくれず、ポップタード(甘いクッキーのような食べ物)を万引きしたり、ファーストフードでしのいできたこと。父親が薬物を使っていることが、トイレの匂いで嗅ぎ分けられたこと。父親のガールフレンドが立ち代わり入れ替わり家にやってきては邪魔者扱いされたこと。時折姿を見せるアンジーが、今度こそはまともになると約束し、何度も信じては裏切られたこと。裏切られることが当たり前だから、何も信じられなくなってしまったこと…..。

 彼のモノローグでは、同じ舞台の片隅でアンジーがクスリ漬けになって倒れていたのですが、暗転の下で涙を流してしまうことも多々あったようです。取り返しのつかない過去を息子から申し立てられることは、アンジーにとって、どれだけ辛いことだったでしょうか。胸が締め付けられるような思いに何度もなりました。

 けれども、それはお互いにとって必要なプロセスだったのかもしれません。アンジーもジョセフも長年セラピーを別々に受けてきていました。この舞台で共演することで、セラピーセッションや話し合いでは解決しえない問題を、歌やダンスや台詞で表現しあい、理解を求め、怒りをぶつけ、時には許しを乞うということをしたのではなかったでしょうか。

*****

 「コンクリート・ジャングル」での私の役割は、刑務所のリハーサルを1ヶ月余りの間記録することでした。まだ形にはなっていないエクササイズの模様や女性たちの語り、与えられた課題を絵にしていく様子等を40時間余り撮影しました。舞台の本番では、リハーサルの風景がふんだんに使われ、各地で起こっている紛争等の世界の惨状とコラージュされていました。舞台がさらに現実世界とつながり、広がりを感じさせられます。そして、その映像が流れる前で女性たちがハイヒールを持ち、観客席に向かって反撃するのです。ドキッとさせられました。悲惨な状況は彼女たちだけの責任ではない。誰にだってそれぞれの方法で対抗することができる、悲惨な状況は希望に変換できる。そんなメッセージを受け取った気がしました。編集を手がけたのは現地の若い映像作家でしたが、映像と舞台のコラボレーションの可能性を感じさせられたものです。

 10数名の登場人物のなかで最も印象が強かったのは、トンガ出身で20代前半のメレです。私がメデアのリハーサルに初めて参加し、極度に緊張していた時、最初に、そしてさりげなく声をかけてくれたのが彼女でした。新参者の私に対するトゲトゲとした視線、もしくは関心なさげな受刑者たちのなかで、メレの柔らかい笑顔と「音が反響しちゃってうるさいよね。調子はどう?」という一言がどれほど私にとって救いになったかわかりません。

 見た目は立派な大人ですが、はにかみやで、あどけなさが残り、少女から成人女性への移行期独特の不安定な感じを漂わせていました。がっしりとした体格に不釣り合いなか細い声。ダンスの時も、詩の朗読の時も、歌の時も、毎回行うチェック・イン(近況報告)の時も、いつでも顔を赤らめ、照れ隠しの笑みを浮かべている。注目されるとくりくりした目をさらに大きく見開き、「そんなに見ないで!」と口走ってしまう。けれども、内にマグマのようなただならないエネルギーを抱え込んでいて、それを持て余しているようでもあり、何かを表現したくてたまらないということも感じました。

 たとえば前回(3)で紹介した、自分に貼られたレッテルをはがすというエクササイズを記録した映像にも、彼女の典型的な反応が映っています。「ぶりっこ」と書いた紙を胸に貼り、ニヤニヤ笑いながら恥ずかしそうに身体をくねくねして、小さな声で「私はぶりっこじゃない」と言うメレ。ローデッサは「本当にそう思ってるの?もっと気持ちを込めていいなさい!」と声を張り上げ、「リアリティをちっとも感じないわ」と首を振り、何度もやり直しを命じていました。

 メレは、人を死に至らせていました。彼女自身、リハーサルで一度そのことに触れたことがあります。ドキッとしました。しかし、それ以上、彼女が罪状について深く語る場面に私は立ち合うことがありませんでした。よって、彼女がどんな罪に問われ、具体的に何をしてこの刑務所に来たのかは分からずじまいでした。ただ彼女がそこに至るまでの何かに囚われていたことや、その死についてまだ向き合いきれないことは伝わってきました。ただわかったのは、彼女の行為は米国のトンガ民族のコミュニティでは受け入れられない行為であること。許して欲しい。そんな思いが彼女の書く短い散文や、いつか真っ赤になりながら披露してくれた民族の踊りから感じられました。

 メデアでは、参加者が犯した罪について語ることもあれば、語らないこともあります。更生を最優先課題とする、「更生プログラムとしての演劇(その他の表現)」であれば、罪状を語ることは避けられないでしょう。なぜなら多くの場合、反省することが「更生」と捉えられており、そのために演劇(表現)が使われるからです。日本国内の少年院でも演劇や映像制作が行われていますが、いずれもこの「更生としての表現」にあたるのだと思います。

 一方、メデアも制度的には「教育プログラム」としての位置づけなので、「更生」を意識したものであることは否めません。しかし、「更生」を最優先にはしておらず、メデアでは「反省」よりも、これまで「私」を生きられずにきた受刑者が、「私」を生きるための声を取り戻すことに重きを置いています。そのため、刑務所に至った罪自体が参加者にとってそれほど意味を持たなければ、もしくはそういう精神状態に至れていない場合は、罪状について語らないのです。むしろ、子ども時代について、そしてパートナーや家族との関係について語るよう促されます。このメデアのアプローチについては、また別の回でも考えていきたいと思います。

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 トークバック・セッションはメデアに欠かせない要素です。上演の後に行う観客との質疑応答の場のことです。現在手がけている映画のタイトルもここからヒントを得ました。トークバックには、言い返す、申し立てるという意味のほかに、呼応しあうという意味があります。ローデッサは時として周りがドキッとするぐらい挑発的に観客の眼差しを問い、観客とのやりとりを促します。

 あなたは罪を犯した女性をどう見てるの?これは「誰かさん」の話だと思ってやしない?妻や娘や妹が牢獄に入れられることなんて、想像したことなんてないんじゃないの?これは私たち皆のストーリーなのよ!

 また、演劇の途中で俳優たちが会場に繰り出していったり、観客に問いかけたりするインタラクティブなしかけも満載です。観客との掛け合いは毎日ありましたが、最後の2日間はとにかく即興が多く、台詞の間違いやド忘れにも会場から気配りとユーモアのこもった突っ込みがあって、笑いが何度も起こりました。

 トークバック・セッションや観客を巻き込むスタイルは、通常の演劇とは異なる演者と観客の関係を表しているといえます。ローデッサは次のように説明します。

 「演者と観客の間に存在する“第4の壁”を私達は常に壊そうとしているの。観客は舞台を非日常空間(=第4の壁)と捉え、感動し、帰路に着こうとする。でも、私達は観客に揺さぶりをかける。だから単なる興味本位で来た人は戸惑う。私達は単なるエンターテーメントじゃないの。劇場という場で、受刑者と社会の新しい関係性を作ることを目指しているの。」

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 話を「コンクリート・ジャングル」の千秋楽の日に戻します。

 人一倍恥ずかしがりやのメレは、エスニックでモダンな衣装を身にまとい、ひときわ輝き、威厳を持って舞台に立っていました。全ての動きに魂を込め、トンガ民族であるという誇りを身体じゅうで表現しているように思えました。彼女が生きてきた背景や状況については個人的に聞く機会がなかったけれども、演劇を通して、彼女が抱き続けてきた苦しみの一端や、メレ自身が向き合いきれずにいる「殺人」の背景、民族への愛情と許しを乞う気持ちが強く伝わってきました。メレが舞台に登場するたびに心が大きく共振しました。

 終了後には、家族や友人たちとのレセプションが開かれます。受刑者たちは 準備された温かい料理を皿に盛り、家族や友人と舞台の上や客席のあちこちに小さな輪を作っていました。皆とても誇らしげで、嬉しそうで、家族や友人らに囲まれて本当に幸せそうに見えました。家族が来ていない人はアーチストたちと食事を共にしたり、あちこちの輪に顔を出して愛嬌を振りまいていました。

 レセプションにはメレの母親や家族の姿もありました。母親は最初から最後まで娘のそば離れず、ずっと涙ぐんでいました。メレ自身も舞台の終盤からずっと涙を流し、声を震わせていましたが、舞台の上で家族に囲まれる彼女の姿からは何かを成し遂げた後の達成感と安堵感を感じました。母親と肩を寄せ合い、何度も抱きしめ合うメレの姿は、身体を縮こめてか細い声をあげ、照れ隠しにニヤニヤしていた2ヶ月前の彼女からは想像もつきませんでした。

 現在米国には20万人を超える女性受刑者がいます。仮釈放や保護観察の女性を含むとその数は100万人以上です。大半が非暴力的な罪で服役しています。彼女たちの多くが薬物やアルコール依存の問題や精神障害や疾患を抱え、暴力や性暴力の被害も深刻であることが多くの調査から判明しています。同時に、そのほとんどが必要なケアを受けることができずにいます。にもかかわらず、 押し進められてきたのは厳罰化です。

 受刑者たちが歩んできた道やこれから通る道を想像するとき、作品を作るプロセス、舞台でスポットライトを浴びる体験、その後の温かい体験(食を共にし、語り合い、ふれあう時間と空間)は、どれほど意味を持つだろう。 こんなに人間的で、治療的で、修復的で、相互的な変容を促す方法が他にあるのだろうか。そんな疑問がぐるぐると頭を駆け巡ります。

 舞台衣装をまとい、楽しそうに歓談するメレたちも、レセプションが終われば、オレンジのジャンプスーツに着替え、手錠をはめられ、バンに乗せられて刑務所という現実に引き戻されてしまいます。家族や友人も同様に、彼女たち(受刑者)不在の現実へと戻っていきます。劇場でつかの間の幻想(劇場)を噛み締める受刑者や家族の様子は、幻のようでもあり、現実のようでもあり、エンディングのようでもあり、幕間のようでもあり、 序章のようでもあり、私に問いかけてくるのでした。

 あなたはどこに立っているの?

              (続く)

(1)2011年10月30日、ニューヨーク市内のワシントン・スクエア公園にて、アンジェラ・デイビスが“ウォール街を占拠せよ”の参加者に向けてスピーチを行った。そのスピーチからの抜粋。

写真のキャプション:終了後のレセプションで家族と共に過ごすメレ。

カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 坂上香監督の“トークバック”製作ノート

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