エッセイ

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「妻の家事ハラ」炎上から見えた少数者の言葉を無力化する「装置」 竹信三恵子

2014.08.02 Sat

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.  「妻の家事ハラ」をうたった旭化成ホームズの広告がネット上で炎上した。実は「家事ハラ」は、昨年秋、私が出版した『家事労働ハラスメント~生きづらさの根にあるもの』(岩波新書)での造語だ。ここでは、「家事労働ハラスメント(家事ハラ)=家事労働を蔑視・軽視・排除する社会システムによる嫌がらせ」と定義し、こうした蔑視によって、家事労働の担い手とされる女性が、貧困や生きづらさへと追い込まれていくことを伝えようとした。ところが「妻の家事ハラ」広告では、それが、「家事をやらされる男性のつらさ」を指す言葉に転化させられてしまった。そこに見えてくるのは、少数派の言葉を無力化する「社会の装置」の存在だ。

●あっという間の定義の逆転

家事労働は人の生を支える重要な労働だ。育児や介護も、子供や高齢者に食べさせ、衣類を選択するといった家事労働の連鎖といっていい。日本では、そうした労働は「女性」「主婦」といったブラックボックスにぶちこんでしまえばそれで解決とされ、政策的支援は極めて弱い。労働時間の設計でも家事労働は無視され、1日8時間という労働基準法の規定など守る方がおかしいと言わんばかりの扱いを受ける。ブラック企業と労使交渉で、「労基法? ウチはそういうのはやってません」と言われたと、ユニオンのメンバーが苦笑していたが、日本社会の空気を見事に表現した言葉といえるだろう。

このような社会設計の結果、女性は、長時間労働と保育サービスの不備に苦しみ、出産で6割近くが正社員の仕事をやめている。両立できる再就職先としては非正規雇用しかなく、ここでは、「夫の賃金に支えられて家事の合間に働くお小遣い稼ぎ」という想定から経済的自立ができない低賃金が続いてきた。そんな非正規が働く女性の6割近くに膨れ上がり、日本の貧困増加の影の主役にもなっている。そんな女性を経済的に支えることを社会から求められ、男性は過労死時間の働き方に耐えるしかない。このような状況に「家事ハラ」の名をつけることで、働き方を家事労働の視点から見直す重要さを認識してもらおうとしたのが出版の意図だった。

旭化成ホームズの「妻からの家事ハラ」は、社会問題として提起しようとした家事問題を家庭内の夫婦のいざこざに押し戻し、しかも、夫に注文をつける妻の態度は嫌がらせだとした点で、このような本来の意図を破壊する作用をもたらしかねない。そんな「家事ハラ」定義が、7月14日付のニュースリリースを通じてマスメディアにばらまかれ、16日からは東京都内の通勤幹線である中央線と京浜東北線の車両内いっぱいに車内広告として張り出された。しかも、これにいくつものテレビが飛びつき、「家事ハラ=家事をする夫への妻の嫌がらせ」という定義があっという間に定着してしまった。

●相次いだ女性たちからの批判

これに対し、女性からの批判が巻き起こった。リリースが出た翌日の15日、知人の女性のフェイスブックがこの広告を紹介。ダメ出しによる夫の意欲低下について「褒められなできんとか子ども気取りもええ加減にせえよ」と批判した。「そもそも『家事ハラ』ってなんやねん!!!!!! 『家事労働ハラスメント』(by竹信三恵子)との混同が起きるやろ!!!」と定義のすり替え問題にもふれていた。これを読んだ友人から、すぐさま「家事ハラが誤用されている」との電話が来た。「家事ハラ」の新書を読んでくれていた読者たちからも、相次いで「これでいいのか」と問い合わせが入った。このままでは「家事ハラ」は女性たちが嫌悪する言葉になってしまい、本来必要な人たちに私の本が届かなくなってしまう。悩んだ末、24日、旭化成ホームズに家事ハラの誤用をやめるよう求める抗議書を持参した。

これを受けて同社は車内広告を予定より4日早い27日に自主撤去。1日には「妻からの家事ハラ」を紹介した同社のホームページに新書の「家事ハラ」の定義を掲載し、「家事ハラ」の言葉の使用を事前に連絡しなかったことで迷惑を及ぼしたことなどを謝罪する「お詫び」文も提出されて、事態は一応の解決となった。

同社がこちらの被害感を受け止め、迅速な対応をしてくれたことは高く評価している。だが、あのような「家事ハラ」定義が、なぜ出回ってしまったのか。

もとになったのは同社の「共働き家族研究所」が7月にまとめた「いまどき30代夫の家事参加の実態と意識」と題する調査報告書だ。ここでは「夫も家事参加をするのがいまどき」として夫の家事参加は当たり前という姿勢が貫かれている。80ページを超えるこの報告書で「妻のダメ出し」の部分はわずか1ページだ。宣伝担当部門は、こうした夫の参加意欲を妨げている要因の解消こそが夫の家事参加を促すとして、これを前面に押し出す方針を取った。広告代理店との相談の中で、インパクトのあるキャッチフレーズとして「家事ハラ」の言葉が浮かんだ。新書の「家事ハラ」の存在はその後で知ったが、男性の家事参加を促すとの目的では一致しているので問題はないと判断したという。

だが、「ハラスメント」という深刻な人権侵害を意味する言葉が貼られたことで、夫の家事参加への助言は、とがめられるべき夫への人権侵害に変えられてしまった。推測ではあるが、「夫の家事を促すにはその気持ちに寄り添うことが必要と考えた」(同社の説明)という思いが、男性が多数を占める打ち合わせの場で、無意識に「妻の叱責に対する夫の鬱憤の代弁」にすり変わってしまったのではないか。それが、女性の(そして男性の)生きづらさを直視させるための言葉を封じ込めたことに、どれだけの関係者が気づいていただろうか。

2014年版「男女共同参画白書」では、共働き男性の家事時間は女性の4割。その比率は10年前と変わっていない。アベノミクスで女性の活用がはやされる一方で「残業代ゼロ制度」という労働時間の規制緩和案が持ち出され、女性の二重負担は高まるばかりだ。加えて夫の家事への苦情までとがめられるとなれば、女性たちの怒りが爆発したのも当然かもしれない。

●言葉を奪っていく装置

こうした「家事ハラ」定義のすり替えに敏感に反応してしまったのは、これまで似た状況が繰り返されるのを見てきたからだ。

1980年代に日本に登場した「セクシュアルハラスメント」は、職場での性による排除という深刻な人権侵害を表す言葉だった。それが「セクハラ」という軽い言葉に縮められ、男性週刊誌を通じて「お尻などに触る程度のお遊び」「社内恋愛」として広められた。

失業率が上昇した1990年代末、仕事を分け合って失業を防ぐ欧州の「ワークシェアリング」が話題になった。だが、この言葉は、当時の日経連によって「賃下げで失業を防ぐこと」と定義を変えられ、記者会見で「ワークシェア=賃下げ」が繰り返された。「ワークシェアはいいこと」の名分の下で、生活に深刻な影響をもたらす賃下げは円滑に進められた(拙著『ワークシェアリングの実像~雇用の分配か分断か』岩波書店、2002)。

2006年、コラムニストの深澤真紀さんが日経ビジネスオンラインで提唱した「草食男子」は、女性と対等に気軽につきあえる新しい男性像を示すものだった。それが、雑誌などを通じて「恋愛もできないダメ男」の意味へとすり替えられていった。

共通するのは、発言権を持つ層が、自分たちに都合の悪い新語の意味を「わかりにくい」として言い換え、マスメディアを駆使してそれを拡散し、本来の改革的な要素を骨抜きにしていく手口だ。女性たちの怒りは、こうした「私たちの言葉」が奪われていく状況にも向けられていた。

言葉の定義についての教育が弱い日本社会で、こうした「装置」は有効に機能してきた。安倍晋三首相の「積極的平和主義」も、そのひとつだ。これは、戦争という直接的な暴力がない状態を超え、貧困や差別なども取り除いた状態まで実現することを意味した政治学者のヨハン・ガルトゥングの「積極的平和」を捻じ曲げて使用したものだ。

もとの言葉に込めた意味を安易に捻じ曲げ、これを力で広めていくことは、その言葉で実現しようとした新しい社会像を無力化し、改革への動きを破壊する。今回の旭化成ホームズへの抗議は、その恐ろしさを強く訴えたかったからだ。

●押し返した女性たちのエネルギー

そんな抗議を会社側に受け入れさせたのは、「家事ハラ社会」にうんざりさせられてきた女性(そして男性も)たちのエネルギーと、これを吸い寄せたインターネットの力だった。

フェイスブックで誤用を知り、電話でこれを教えてくれた友人が、「これってセクハラの流行のときと同じだよね」と悔しそうに言った。そのとき私の中に、「ワークシェア」「草食男子」といった定義のすり替えの数々が、一気によみがえった。このまま黙っていたら、すり替えられた人たちの悔しさは、なかったことになってしまう。「ひとりでもやる、ひとりでもやめる」という小田実の言葉で自分を励ましながら、まず何ができるかを総ざらいしてみようと思った。法律家の知人や出版社に相談したが、法的な対抗措置は難しそうだった。それなら、「困っているのだからなんとかして」と、率直にこちらの窮状を訴えてみようと考えた。困っている理由を3項目にまとめた抗議書と、これを改善するための5項目の要求書を一晩で書き上げ、連休明けの22日に同社に電話で会見を申し入れた。

フェイスブックなどで騒ぎを知った大手紙の女性記者たちが相次いで取材に入ったこともあってか、同社は反響に驚き、私に連絡を取ろうとしていたと言った。24日のアポがすぐに決まった。

同社に出向いて抗議書を渡した後、すぐに抗議内容をフェイスブックで公開した。大量宣伝による「家事ハラ」の誤用を正すには、こちらも量が必要だと判断したからだ。多くの人がこれをシェアし、ツィッターや個人ブログやメーリングリストでも紹介してくれた。同社に抗議のメールを打ってくれた人も多かった。「家事ハラ」広告炎上についての分析記事が、ネット・ジャーナリストの女性たちの手で次々とアップされた。これらの声の総和が、会社を動かしたと、今も思う。

都議会のセクハラ野次問題はツィッターを通じて拡散され、批判の大きなうねりをつくった。それに比べれば微々たる動きだったが、力のある層によるマスメディアを通じた大拡散にやられっぱなしだった私たちが、インターネットというミニメディアを通じて多少の押し返しに成功したという意味では、貴重な体験だった。

これが「多数派による少数派の言葉の無力化装置」の解体に役立ってくれることを、今は、ただ願っている。








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