2015.01.09 Fri
中国映画・第六世代のロウ・イエ監督の新作『二重生活』が1月24 日(土)より公開されます。WAN映画欄(C-WAN)では、「文革」を研究テーマとする社会学者・福岡愛子さんをお迎えし、C-WANコーディネーターを務める映画研究・批評家・川口恵子と二人、作品の魅力を語り合いました。物語の舞台、女性表象、政治性、愛と性・・・映画の話は尽きません。まずは前編からお届けします。(一部、ネタバレ箇所があります)
物語の舞台――大都会から地方都市へ
川口:ロウ・イエ監督の新作『二重生活』を見るのは前作『パリ、ただよう花』に続き二作目です。近頃、これほど濃密な人間関係を、意表をつくどんでん返しの連続で描き、ミステリー・サスペンスとして面白く、しかも映画的手法において現代的かつ政治的な映画を見たことがありません。この魅力を語り尽くすには一人では不可能だと思い、福岡さんと語り合いたいと思いました。福岡さん、よろしくお願いします。
福岡:ロウ・イエ(婁燁)作品にお誘いいただき、すっごく嬉しいです。私にとっては、1990年代の『デッド・エンド 最後の恋人』や『危情少女 嵐嵐』も懐かしいのですが、監督・脚本のロウ・イエとして不滅の存在となったのは2000年製作の『ふたりの人魚』から。あれ以来、『パープル・バタフライ』、『天安門、恋人たち』、『スプリング・フィーバー』と見続けて、一作ごとに全く新しいテーマに取り組む映画作家、という印象を強めてきました*。でも『二重生活〔原題は浮城謎事〕』を観て、全作品を貫くロウ・イエらしさが再確認できました。重なり合う物語、織りなされる虚・実、ミステリー仕立ての脚本とカメラワークの妙――すべてこの最新作に結実している気がする。しかも、久々に中国で撮った本作の舞台は、上海でも北京でもなく武漢。全く異質な三つの町から成る武漢という地方都市の多重性こそがロウ・イエを引きつけたようで、納得のロケ地選択です。
ロケ地 武漢
川口:大都会の上海(『ふたりの人魚』)、北京(『天安門、恋人たち』)、南京(『スプリング・フィーバー』)と物語の舞台を変えてきて、今回は武漢に移したのですね。日本の小説や映画もそうですが、地方都市は現代社会の抱える様々な「ひずみ」を生活の次元で描くのに適しています。武漢は中国ではどういった位置づけにありますか?
福岡: 実は私もよく知らないんです。なぜなら、これまで観てきた現代中国映画で、武漢を描いた作品として記憶に残っているものがないから。地理的には内陸部にあって、中国大陸の主要都市を結ぶ要に位置します。歴史的には、『レッド・クリフ』で知られる「赤壁の戦い」の舞台で、日中戦争時は日本軍の猛烈な進撃作戦が展開され、文化大革命中には武装闘争が激しかった所です。でも1990年代前半からは、武漢経済技術開発区が設定され外資が導入されて、すっかり様変わりしたのでしょう。もともと政治・商業・工業を特色とする三つの町から成るという多層性に加えて、急速な経済発展に伴う貧富の差の拡大など社会的にも二重、三重の構造が想定されます。寒暖の差が激しく湿度の高い気候らしいので、いかにもじっとりと淀んだ空気もイメージできます。
川口:偶然ですが、最近、イオンが武漢に内陸初の郊外型ショッピングセンターを展開すると日経で読みました。賃金上昇率も近年は内陸部が沿岸部を超えているそうです。沿岸部を中心に発展してきた中国経済の勢いがいよいよ内陸部に及んだとすれば、武漢はその先端的位置にあると理解してよいでしょうか。経済の急発展が人びとの心にさまざまな亀裂や葛藤を生じさせる――物語の磁場を持つ場所ですね。映画の冒頭シークエンスにも、「多重性」が形象化されていました。まず物語のきっかけとなる交通事故が暴力的に提示され、そこから一転、武漢の街をとらえる空撮に切り替わる。煙突から黒煙を吐き出す工場群や、高層ビルが遠くに見え、揚子江の上を高速道路がまっすぐに走っている。ほーう、これが今の中国の地方都市なのかあ―と見入っていると、高速道路を高級車が走るのが見える。そうして物語の主人公となる都会的なビジネスマン一家の姿が導入されて、やがて流れるようにカメラは街中の雑踏に入っていく。ロウ・イエ監督ならではの、ドキュメンタリー(現実の風景)とフィクション(物語)が溶け合う瞬間でした。急速な近代化により現代化・都市化が進行する〈中国の今〉を物語の背景に据えるカメラワークです。そこから、会社経営者・妻・愛人からなる三角関係の物語が複雑に交錯しつつ進行していくわけですね。
福岡: そう、オープニングシークエンスは迫力ありますね。しかも、それに先駆けて流れ出すのがあの曲とは。中国でのベートーベン人気は独特です。私ものっけから引き込まれました。
川口:西洋のクラシック?
福岡:ベートーベンの第九の「歓喜の歌」を女性歌手が中国語で歌っています。
川口:ああ、ラストにも流れるあの歌!オープニングシークエンスで最初に聞いた時、なんとなく奇異な感じがしたのを思い出しました。不安定さを感じさせる歌声で――西洋と中国との根本的な相いれなさのようなものを表象していたような・・・
二人の女、そしてもう一人
川口:最初にお聞きしたいのは、この映画のメインとして登場する三人の女たちについてです。メインの二人―正妻と愛人―はいわば「表」と「裏」。ロウ・イエ監督の発言を借りていえば中国社会のもつ二面性ですね。正妻ルー・ジエは、大学を出た有能な元ビジネス・ウーマン。富裕層です。他方、愛人サン・チーは、一人息子と「夫」との暮らしを何より大切にしている、貧しくも家庭的な女性。正妻が愛人の暮らす集合住宅を訪れ、雑然とした暮らしの匂いに触れ「ここは懐かしすぎる」とつぶやくシーンが忘れられません。そして、冒頭、交通事故で無残な犠牲者となる三人目の女。女子大生がいます。彼女は理不尽な暴力の積み重ねで命を落とす。興味深いのは、その彼女も、他の二人の女性同様、罪を背負っている。「イノセント」な存在ではない。彼女の死は、彼女の生同様、粗末に扱われている気がしました。誰も彼女の死に責任をもたず、罪も明確には問われない。まるで無意味な死であるかのようです。唯一、彼女の死を悼む母親も、示談金により、押し黙る。不動産とカードと預金通帳を渡される短い場面が印象的でした。女子大生の死の無意味さは、現代資本主義社会で変貌する人の心を表わしているように思えてなりません。
福岡:最初の二人の女については、ほぼ同感です。ただ私には、二面性というよりも、その境界の危うさの方が印象深かったです。正妻として夫婦の経済的成功を共有し専業主婦の特権を享受するルー・ジエ(陸潔)にとってさえ、安アパート暮らしは決して遠い世界のことではなく、今でもその貧しさゆえの親密性を懐かしく思う。この二人の女たちの駆け引きが圧巻で、それと比べると確かに「イノセント」ではないもう一人の若い女は、記号的な存在。人物や生活の描写に乏しく、単なる男の遊び相手であり交通事故の犠牲者にすぎません。
だからこそ、最後の不思議なシーンにはどんなメッセージが込められているのか、深読みしたくなってしまいます。彼女のことを忘れないで、とでも言われているような気がしたんです。彼女の母が因習に則って行う弔いの行為からは、母独特の被害者性と、この母の知らない別な顔をもったがゆえに死んでしまった娘の加害・被害の境界の危うさが、浮かび上がるようにも思えます。でもそれとの対比においてもう一人忘れてはならない存在が、ホームレスの男です。急激な経済発展や社会変動の犠牲者に違いないこの男は、偶々居合わせたというだけで抹殺されるのです。弔ってくれる人もなく放置されて、徹底的に救われません。
それから、一人の男をめぐる妻と愛人の三角関係ミステリーとしては、女同士の戦い、あるいは女二人の共謀による男への復讐、などが従来のパターンだったと思います。たとえば復讐劇の異色作としては、『双食記Deadly Delicious』(2008/日本未公開)という中国映画を思い出します。男の不実を知った妻と愛人が共謀し、男に食べ合わせの悪い食事を与え続けるという、「医食同源」を逆手にとった恐ろしい話です。それに対してロウ・イエの『二重生活』では、二人の女の怒りとやりきれなさはもう一人の女に向かう。川口さんのおっしゃる通り、この若い彼女の理不尽な被害者性もまた、幾重にも重なり合って、そこにロウ・イエ作品ならではの政治性を読み解くことができるように思います。
政治性
川口:ずばり、女子大生の死にどういった政治性を読み取りましたか?
福岡:まず単純に、政治的な問題にふれるという意味で、彼女が、地方幹部の息子の運転していた車にひかれたということ。そして、即死ではなかったのに結局、彼の小心さと尊大さによって殺されたのだということ。この冒頭の出来事で私がとっさに思い出したのは、中国の地方都市で起こった交通事故の実例です。地元警察の幹部の息子が酒酔い運転で女子学生二人を負傷させ、そのうち一人が死亡するという事故でした。事故直後に「俺の親父は李剛だ」と父親の権威を振りかざし、実際その後の捜査や裁判過程に圧力がかけられて、示談に終わった。それに対してネットなどで非難が噴出したり、ドラ息子のセリフが笑いのネタにされたりしたそうです。日本でも「李剛事件」として報じられました。ロウ・イエの『二重生活』でも、そのような家父長的権威主義の犠牲に選ばれたのが女子大生でした。
川口:あのドラ息子は、ほとんどコミカルなまでに親の権威を振りかざしていましたね。社会風刺的場面だったのでしょうか。
福岡:しかし、だからといって政治的批判が意図されているとは限りません。最近の中国映画には、司法制度の不合理を描いたり、事件の影の首謀者が地方警察のトップだったことを突きとめたりする作品があります。中国政府は、不正や腐敗と闘うことを公然と掲げていますから、日本の観客から見たら多少手荒そうな取締りシーンでも、実は懸命な取り組みのアピールにもなったりするわけです。反面、わかる観客にはわかる風刺を盛り込んだり裏メッセージを仕込んだり、という余地はあります。
ロウ・イエの場合、これまでの作品で性描写や同性愛のタブーに挑んできたことが、彼の政治的メッセージのように受けとられがちです。「天安門」のような政治的事件を、性描写を前面に出して「脱政治化」する、そのような抗い方自体に政治的意味を持たせることもできます。でも彼は、あくまでも自分の感性と物語を重視して撮る監督なんだと思います。それが阻まれることに対する芸術家としての気概や反骨精神は感じますが、それが「売り」とは思えない。但し、国内の映画館で上映される映画はすべて「国策映画」という体制の国では、彼のような創作姿勢自体が反体制的です。そのあたりが、中国という環境がいやおうなしに課すロウ・イエならではの政治性といえるでしょう。
川口:複雑に入り組んだ「政治性」ですね。私も、最近、日本の報道で、中国の習近平国家主席による反腐敗運動が勢いづいていると知りました。「巧みな世論誘導で汚職に不満を持つ大衆の支持を取り付けている」(日本経済新聞朝刊12月27日付国際面)と。だとすれば、親の権威で事件をもみ消しにかかるドラ息子を登場させたのは、「国策」に沿ったとも考えられるわけで。日本的感性からみると「反体制的」 な場面が、意外に、「国策映画」的といえたりする。中国映画はこれだから手ごわい。何が「政治的」か、判断がすごく難しいです(笑)。
愛・性
福岡:次に、この女子大生は、やはりネット社会の犠牲者でもありますよね。弱者のツールとなり得るネットは、市場経済の隆盛に伴い、女が自らを商品化することで主体となる機会を与えたといえます。女子大生は、ある時点までは、妻や愛人よりも自由に男と出会い、自分の意を通しています。しかしそこに罠があった。正妻はもちろんのこと、男児を産んだことで母として優位に立った愛人と比べても、彼女は法的にも倫理的にも弱い立場にあります。そしてついには二人の女の攻撃を一身に浴びることになる。
川口:女子大生は、正妻と愛人とは違って、「愛ゆえの葛藤や苦しみ」といったものを持たないかのように描かれていましたね。
福岡:そうですね。逆にいえば、愛なき性の対象としての被害者性もあるわけですが、『二重生活』には性描写がほとんどありません。性をタブー視する力に抗うという意味での政治性は薄まって、エンターテイメントとしての映画の魅力が大きい。それに、男との性的関係における女の被害者性という点でも、『二重生活』の女子大生のそれは、あまり鮮明ではないですね。川口さんがロウ・イエの前作『パリ、ただよう花』評で書かれていたことが、とてもしっくりきます。あの作品のヒロインは、レイプに等しいセックスに始まって、男の暴行や支配の対象となっていくのに、決して被害者にはならなかった。「かといって自ら性的主体となるといったフェミ的権利意識とも無縁」で、あらゆる性的規範から解放されているようでした。
川口:『パリ、ただよう花』のヒロインは、フランス語を話し、西洋の知識を身につけた知的な存在として西洋と中国の狭間を漂っていましたが、『二重生活』の女子大生は、最初から根無し草のようでした。軽々と身を売り、軽々と死んでいく。彼女の死は、彼女自身にとって、まったく意味不明の、突然の死だったことでしょう。死と同様、彼女自身の生も大して意味をもっていないかのようでした。そこに監督の現代社会に対する冷徹な視線を感じます。
福岡:いずれにおいても、女性表象は男性表象と一対なんですよ。たとえば『二重生活』の場合、三人の女たちの中心にあるはずの男は、特に暴力的でも露骨に家父長的でもない。一見薄っぺらにみえる男性表象は、相手の女性を単なる被害者に仕立てないために不可欠なのかもしれません。しかも、相手や状況しだいの場当たり的な反応をくりかえし、意志も計画性もなく生きているようにみえる男たちというのは、今や日本でも中国でも珍しくない。少なくとも私には、意外とリアルに思えます。
川口:主人公の男性自身、どこか「中心」を失っているかのようでした。性描写に関していえば、西洋的な正妻からの求愛に対しては受動的で、伝統的な愛人に対しては、暴力的なレイプまがいのセックスを強要する。けれど最終的には、どちらの女に対しても言うなりで、主体を失った男として去勢化されているような。子どもに対しては、情愛豊かに接していたのが印象的でしたね。
福岡:はぁ。私にはなかった着眼点です。『天安門、恋人たち』における政治の季節の性や、『スプリング・フィーバー』の同性愛など、性描写の印象が強烈だったので、それと比べると『二重生活』の方は、あまり記憶に残ってないんですよ。思えば試写直後の端的な感想は、ロウ・イエがフツウの映画撮った! しかも不倫ミステリー! でもやっぱりありきたりじゃなかった! それだけでも『二重生活』の魅力を伝えられたのに、それ以外のこと語り過ぎてしまいましたね(笑)。語り過ぎついでに、ロウ・イエの他の作品や中国映画の現状にも是非ふれてみたいです。というわけで、後半に続く・・・。
音楽:ペイマン・ヤズダニアン
配給・宣伝:アップリンク
* ロウ・イエ監督作品の『タイトル』(製作年/日本公開年)
『デッド・エンド 最後の恋人』(1994/1995)『危情少女 嵐嵐』(1995/2004)『ふたりの人魚』(2000/2001)、『パープル・バタフライ』(2003/2005)『天安門、恋人たち』(2006/2008)『スプリング・フィーバー』(2009/2010)『パリ、ただよう花』(2011/2013)『二重生活』(2014/2015)。
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