上野研究室

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東のイシハラ、西のハシモト  ちづこのブログ No.8

2011.06.29 Wed

中国は明朝のことです。

ヨーロッパ人が交易のための外交交渉に朝廷にやってきました。かれらは謁見の間に通され、待たされ、皇帝のまえに拝謁を許され、そして謁見は終わりました。

「で、外交交渉は?」

とたずねたヨーロッパ人に対して、明朝の官吏はこう答えたといいます。

「たったいま、終わりました」

うそのようなほんとの話です。中国史の専門家に聞きました。

当時の中国にとって外交とは儀礼のことでした。

皇帝のまえに拝謁し、上下関係の秩序をふるまいで遂行したときに、中華思想のもとでおこなわれていた明朝の朝貢貿易の形式がそこで成りたったのでした。ヨーロッパ人は朝貢の許可を与えられ、以後、明朝の周辺のひとつである南蛮にカテゴリー化されることになるのです。

行為とはこのように遂行的言語行為であることは、いまや社会科学の「常識」になっています。儀礼もまた、人間社会がつくりだしたふるまいによる「言語」のひとつにちがいありません。行為とは慣習化したふるまいの様式であり、それに高度に形式化された儀礼から、日常的に身体化された慣習までの幅があるにすぎません。

君が代・日の丸の起立・斉唱に従わなかった教員を処分した東京都教委の判断を合憲とした最高裁の判決がすでに4件も出ました。反対の少数意見が付記されていましたが、これが今後の判決の範例となるでしょう。唖然とし、暗然としました。行為とは何か、がまったくわかっていないからです。

「思想・良心の自由」とはそれを「表現する自由」と一体のものです。表現とは言語による表現のみならず、ふるまいやパフォーマンスによる表現まで多様な様式をともないます。行為もまたそのようなふるまいによる「遂行的言語行為」のひとつである、そして儀式とは高度に定型化・様式化されたふるまいのあり方であるということは裁判官の「常識」のなかにはないのでしょうか。

ふるまいを強制しても「思想・良心の自由」は冒されない・・・それなら「踏み絵」という権力の検閲は、検閲でなくなってしまいます。「踏み絵」を強いても、「思想・良心の自由」の侵害に当たらない、ということになってしまいます。まさか!

この判決を「面従腹背のすすめ」ととったひともいます。ですが、思想・良心の自由とは、それを表現するふるまいの自由とひとつながりのものです。こころのなかで何を思っていてもかまわない、表現さえしなければ、ということなら、何も憲法で保障されるまでもありません。こころの統制など、だれにもできないからです。だからこそ、権力はふるまいを統制するのです。ヒットラーに向かって挙手の礼をする、ご真影に向かって最敬礼をする、ニッポンチャチャチャ、に唱和する・・・そのふるまいをナショナリズムと呼ぶのであり、その統制にしたがわない者を罰することを全体主義と呼ぶのです。最高裁は、その全体主義的な統制をよしとする判断を下してしまいました。これが民主主義の国家でしょうか!

朝日新聞6月29日付けの紙面で、橋下大阪府知事が、職務命令より条例が上、だから条例にしたがってもらう、と発言していました。それが大阪府が君が代起立条例をつくった理由だそうです。

ですが、条例より法律より、憲法が上。憲法が保障する「思想・良心の自由」に違反してはいないでしょうか。違憲訴訟をしようにも、現在の最高裁のもとでは勝ち目がなさそうなことにも、暗然とします。同じ紙面で、ほかならぬ日の丸・君が代法を国会で成立させた当時の立役者、野中広務さんが橋下知事に苦言を呈しています。日の丸・君が代法には「国旗・国歌を制定する」の文言のほかに、義務も罰則もありません。国家公安委員だった元自民党政治家の野中さんを「リベラル」と呼ばなければならないほど、この社会は全体主義化しつつあるのでしょうか。

東のイシハラと西のハシモト、このふたりの強権政治を許容する社会に住んでいることに暗澹とします。しかもかれらの支持が、それによって損なわれないことにも。それを追認し、正当化の根拠を与えた司法にも、呆然とします。

この怒りをどこへ持って行けばよいのでしょうか。

カテゴリー:ブログ

タグ:憲法・平和 / 上野千鶴子