2012.01.15 Sun
【報告に対するコメント&レスカの概要】
当日は、発表時間20分と討論40分という時間配分の中で、討論用の資料にもなるようにと、欲張ったレジュメを用意したことで、結果的に骨子のわかりづらい発表になってしまった。男女20数名にのぼる人々の文革認識とその変容について、転向ではなく「翻身」という観点から記述・分析するという大がかりな研究の中から、女性4人に焦点をあてただけで「ジェンダー分析」と銘打ったことも、明らかに「作戦ミス」(上野さん談)だった。コメントやレスポンスカードを通して寄せられた批判は、主に以下の点に集中した。
(1)「翻身」概念が説明不十分、あるいは充分精緻化されていないという問題
分析ツールとして有効に使われていない、対象者がすべてその一語に入ってしまっている、「翻身」の意味を定義することと対象者のナラティヴからそれを探求することとの関係が不明、アイデンティティの「変化」なのか「不変性」の主張(語ることでアイデンティティを再認識することまで含む)なのか、中国語に慣れ親しんだ人にとっては「翻身」も「転向」同様に歴史概念なのでではないか……といった指摘は、すべて充分納得のいくものだった。それぞれに応えようとすることで、理論枠組み全体を明瞭にできる。より具体的には、「翻身」の事例において、変化を受け入れる際に否定や怒りや交渉の過程を経ずに受容するというような違いがあるのか、あったらそれを性差とみなせるのかどうか、という例えをあげたレスカもあり、「翻身」の過程や程度を考える際に参考になる指摘だった。
(2)対象選択の問題
対象の選択理由が明記されていない、女性に限る意図がわからない、女性4人が対象者全体の中でどんな特徴をもつのか不明、四人のキャラがみんな似かよってる……といった指摘についても、安易な「ジェンダー分析」看板同様に、問いと答えと方法とがちぐはぐで説得力がないことに対する批判といえる。それぞれのインタビュー内容が示唆的でおもしろいということを伝えるだけでは、分析とはいえないことを再認識した。
(3)文章表現のあいまいさや比較対象の妥当性などに関する問題
「女と政治を切り離すジェンダー規範」とあるがそもそも政治と結びついているのは誰なのか、切り離されているのはジェンダーだけによるのか、「当事者」とは何の「当事者」か、「反動の潜在勢力…」としての評価には語り以外のevidenceが必要、認識転換の内面化に時間がかかるのは文革特有なのか否か、日本にいて中国の歴史の波に影響されることと戦争体験などとの違いはどうなのか……といった批判は、個人的な思い入れのために筆が流れがちになることへの戒めとしても受け止めて、書き直しに生かしたい。
(その他、私の発表に触発されて、震災前後の変化はどうなのかと考えさせられたというレスも複数あった。私からすると、震災を機に「原発推進」から「脱原発」「反原発」へと変わった科学者や政治家に興味がある。あるいは、この惨事にもかかわらず、あらためて原発の必要性を強調するのは「翻身」と言っていいのか?)
上記のような批判を受け止めることによって、今後の改善の見通しがついた。以下が、そのような批判の対象となった当日のレジュメである。下線部分を強調する形で発表した。
【序章】 はじめに
問題意識
1968年に入学した地方大学のキャンパスで、連日ハンドマイクから吐き出される扇動的言語の中でも、「カッコつき日常に埋没するな」という叫びに心動かされたことを覚えている。四半世紀後、すっかり慣れた都会生活の中で、「終わりなき日常を生きろ」[1]という社会学者の声に戸惑いつつ共感した。あっという間に過ぎ去ったかに思われる歳月であったが、あらためて振り返ると隔世の感があった。そんな中で、「団塊の世代」とは意識的に一線を画しながら、「60年代」に関する言説には関心を寄せるようになっていた。しかし、さほど意識の高くない周縁の一学生に過ぎなかった私には、たぐり寄せる記憶にも限りがあった。
なぜか、中国の文化大革命〔以下、文革〕に関する記事や回想にも興味をひかれ[2]、特に1994年4月に観た映画『青い凧』[3] の冷めた映像に強い衝撃を受けた。文革に到る道程の不条理を、ひときわ強く印象づけた作品だった。以来私は、人々を容赦なく巻き込む運動や思想と劇的な認識転換をめぐる問題意識だけでなく、そのような隣国の同時代現象についてなぜ私は無知でいられたのか、ということに囚われ続けた。
日本における文革をめぐる言説と「文革礼賛」論の特徴
文革をめぐる日本における言説としては、当時のメディアの「過熱」「中国寄り報道」が回顧され、当時の論壇を席巻した「文革礼賛」論者が事後的な批判の対象となるという形で言及されることが多かった(加々美2001: 3)(福岡2009: 85)。また、日・中共産党の関係が文革直前に決裂したことは、日本における文革評価をめぐる日共系・反日共系の対立を熾烈なものにし、日中友好協会の分裂などに顕著に現れた。日本における「文革礼賛」論の多くは、「反日共」色を鮮明にし、戦後の日本が大陸の新中国との間に講和も国交も成しておらず、当時の自民党政権をはじめとする社会全体の大勢が「反中国的」であったという認識に基く対抗言説として表明された。しかしその対抗的原動力は、1972年に当の自民党政権によって日中国交回復が実現して中国ブームが起こると、たちまち減衰した。
一方中国では、毛沢東の後継者とされた林彪が謎の死を遂げ、1976年に毛沢東も死去して、1978年には「現代化」への歴史的転換による脱文革路線が決定的となった。文革中に再三失脚させられた鄧小平が復活後の指導力を不動のものとした1981年、文革は「完全な誤り」であり「いかなる意味においても革命や社会進歩ではなかった」と結論づけられた
。以後、この「歴史決議」[4]という国家言説の枠組みに沿って、当初の理念とは全く異なる被害当事者にとっての現実が明らかにされた。
すなわち、日本の対中政策とアメリカのアジア外交を批判して中国を擁護することと表裏一体であった文革評価は、日中国交正常化後には対抗言説としての政治的意味を失い、「歴史決議」後には信憑性の拠も失ったのである。その後に起こった「文革礼賛」論批判は、事後的優位に立つ勝者による敗者の断罪という単純化を免れない。そのような批判と責任追及の姿勢自体もまた、文革を一義的・否定的に結論づける新たなマスター・ナラティヴの枠組みに依拠しているのだが、そのことの限界は看過されがちである[5]。
【第1章】 理論枠組み
1-1 研究目的と方法
そのような問題意識から私は、1960年代後半の日本で文革に対する認識がどのように形成されその後どのように変容したかを、それぞれ世代や立場性の異なる個人に照準して記述することを目的に、インタビュー調査を開始した。主な対象は、文革の正式発動以前から中国に対する関心が相対的に高かった人々であり、彼らが現在の時点から語る文革認識である。そしてそれが、過去の認識もそれを成り立たせた要因も変化した後に、どのように回想され意味づけられるかを記述し、「翻身」という観点から分析する。ここではその中から、当時も今も文字媒体による発表の機会を持たない一般人に限定し、特に女性対象者の記憶の語り方に注目して、同世代・同類型の男性対象との比較を通してまとめてみる。
彼女たちに対するインタビューでは、桜井厚が『インタビューの社会学』で述べたような「対話的構築主義」のアプローチを採用した。当事者一人一人が経験した出来事や社会過程の主観的意味を把握することをめざして、語り手自身の概念やカテゴリーの定義を尊重し、「何を」だけでなく「いかに」語ったかを重視するという方法論である(桜井2002: 28)。
但し本研究における語り手は、私と出会わなければ想起さえしなかったかもしれない記憶を多く語っている。聞き手=調査者と、語り手=被調査者との間の関係は対等とはいえないが、決して一方的な能動・受動の固定した関係でもない。聞き取った内容は、過去の出来事や体験についての情報提供というよりも、聞き手・語り手双方の関心から構築された「対話的混合体」なのだ(桜井2002: 30-31)。
1-2 記述・分析概念としての「翻身」[6]
しかしいずれにせよ、個人誌上においてその前後を画するような変化について語る人々は、それをポジティヴに主張するための語彙をもたない。また、当事者個人の主観に沿って記述・分析するための概念もない。本研究が副次的にめざすのは、そのための概念装置としての「翻身」の提起、すなわち転向から「翻身」への方法論的転回である。
『共同研究転向』は、日本の戦前・戦後の特定の時期に大量発生したとされる思想的転向を対象化するにあたって、「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」という狭義の定義を採用した(鶴見1991: 10)。しかし「権力による強制」を前提とする限り、転向には権力への屈服が含意され、それとの対比において、屈服しなかった者の優位が確定する。転向を批判するということは、権力に与しない自律的な主体の一貫性を前提とすることになり、そのような主体たり得なかった者の変節や裏切りへの非難に短絡しやすい。
さらに問題なのは、事後的に有利な立場にある者や、転向への強制という局面を免れた者だけがそれを論じる資格を有するような道義性・倫理性を引き寄せやすいという点である。いずれにせよ、「転向」は歴史概念としてこそ重要な意義をもつのであり、その有効性を損なってまで同じ用語を拡大再定義して使うことに意味があるとは思えない。
そこで本研究が採用する「翻身」という概念は、アメリカの社会学者ピーター・バーガーが1960年代に提起したalternationという用語に依拠している(Berger 1963)(Berger & Luckman 1967)。
バーガーらによれば、人が社会に存在するということ自体、主観的現実の不断の修正過程を伴うものであり、個人が自分の生きる世界をほぼ全面的に切り替えるような変化も起こりうる。バーガーらはそのような変化を、alternationと名づけた(Berger&Luckman 1967: 157=2005: 237)。alterationと混同されがちだが、alternationが採用された点に注目して、本稿では、連続性の拠り所である一人の「私」の中に、複数の自己が入れ替わり立ち現われるという主体観と、その変化の過程を選択・操作し、なおかつ一つの個人誌の中に位置づける主体的な存在とが想定されうる概念とみなす[7]。
また本研究が提起する「翻身」は、言説の効果として事後的に立ち上がる主体の可能性に結びつく概念である。それがあってはじめて「翻身」前の自己とそれと対比される「翻身」後の自己が構築されると考えうるからだ。記憶と言説の帰属先として自己を構築する主体的な存在それ自体は、不断の社会化の過程にあって、「他者の態度を採用することによって登場する自己」(Mead[1934]1972)でしかない。しかし時空を隔てた疎隔化によって、過去の自己を拘束していたものと拘束されきらなかった自己との間の差異について語ることができれば、その語り方の分析によって、事後的に構築された主体に接近可能であろう。
本稿における「翻身」は、複数の世界を生きる個人が選択の余地を自覚しながら、ある特定の現実領域において劇的な認識の転換を体験し、その前と後とを画するような出来事として事後的に意味づけるような根源的・個人的変化を意味する[8]。機能的には、語り手自身が用いる当事者概念ではなく、記述・分析のためのツールである。
1-3 具体的記述・分析対象
日本における文革認識は、当事者個人の中国観と密接に関連し、日本における中国観は「日中戦争」に対する歴史認識と切り離しがたい。従って対象として欠かせないのは、戦前世代も含めた日中関連の集団の成員であり、また彼女らと対照的な戦後世代や無所属・無党派の人々である。以下の四人(W1~Z1)を中心に、中国観における「翻身」の結果としての文革認識、あるいは文革を「翻身」の契機とした文革認識について、それぞれの語り方を分析する〔比較可能な男性対象については、W2、W3、X2…などと表記〕。
W1=元「軍国少女」の敗戦を契機とした「翻身」と平和・友好運動としての文革認識
1931年東京山の手生れのW1は、都内の女学校生徒だったが、敗戦は疎開先の山形で迎えた。戦後の労働運動を通して人権や平等の意識を高め、その後日中友好協会に入会し、文革時に同協会が分裂した時は反日共系の日中友好協会(正統)〔以下「日中正統」〕に移って現在に至っている。
X1=学生訪中団派遣活動における文革認識
終戦間近に「満州」官吏の娘として中国大陸で生れたX1は、両親の語る「満州」の記憶を通して中国への関心やその言語と文字への興味を抱いていた。1963年に都内私立大学の中国哲学文学科へ入学し初めての東京暮らしの中で、他大学との中文系のつながりによって、学生訪中参観団を募集・派遣する齐了会(ちいらかい)[9]の活動に参加した。自らも1966年に紅衛兵運動が可視化される直前の中国を訪問し、卒業後は日中旅行業務のプロとなって、今なお齐了会の同窓会的活動の中心となっている。帰属集団の拘束性が弱く、中国観における個別性・多様性を重視するという点で、W1とは対照的だ。
Y1、Z1=帰属集団を持たないノンセクト学生の中国観と文革認識
1953年生れのY1は、日本共産党員だった父の影響で、社会科学や哲学の文献、毛沢東の著作や「文革礼賛」書籍に親しんだ。今でも毛語録の一節が口をついて出るほど感化されたが、日中関連の団体にも政治活動にも参加したことはない。彼女の文革認識は、たまたまインタビューに応えることで封印を解かれた個人記憶に留まっている。
同年生れのZ1は、文革発動時は都内の高校生だった。子供の頃から中国の小説に興味をもち、白話文〔口語体〕の小説に憧れて1971年に都内の私立大学の中文科に入学した。その頃には文革の影響の色濃い中国語教材ばかりで辟易した反面、学内には学生運動の余韻も政治性も感じられなかったことに拍子抜けした。国交正常化直後の演出された日中友好に反感を覚えたが、中国への関心は一貫して高く、改革開放後に比較的自由に往来できるようになった中国の人々との個人的交友関係を通して、中国語と中国人への理解を深めている。
【第2章】 女たちの文革認識と「翻身」の語り方
2-0 本章の記述と分析によって明らかにすべき論点
以上述べてきたような問題意識と枠組みにそって、具体的な記述・分析を行うが、それを通して本研究が探究したいこと、主張しうる点は以下のとおりである。
それは、歴史的認識転換という客観的現実の変化を、個人的な認識転換を経た主観的現実として内面化することは、実はそう容易なことではないのではないか、ということである。それを困難にする文脈と条件を解明し、阻害要因を析出する。
本稿のテーマに即して言えば、まず第一に、戦後の中国に対する認識転換を困難にした政治的・社会的要因の解明である。第二に、戦後の中国観の転換には、偶然と必然を伴なう問題化の意識と個人的努力が必要だったが、そのような中国観における「翻身」は後の文革認識をいかに規定したのか。第三に、文革終結後の歴史的認識転換に関しても、過去の自分の文革認識は「誤り」だったという語り方は聞かれない。それはなぜか。認識の誤りとして書き換えられる代わりに、どのような意味づけがなされるのか。
最後の点は、「翻身」とみなし得る新たな個人的変化とその意味の考察につながる。歴史的認識転換に伴う記憶の再構築と自己の一貫性に関わる問題でもある。これについては、第3章の結論部分であらためて考察することになろう。
2-1 敗戦を契機とした中国認識の転換は、なぜ困難だったのか
2-1-1 敗戦体験における地域・階層・ジェンダー格差
「軍国少女」W1の敗戦体験と戦後の始まり
W1の記憶は、一貫して父や家族、夫や友人との関係を通して語られる。戦後再会した幼馴染の男子達や勇気ある上級生女子などをモデルとして、W1も社会問題に眼を向け、組合運動に参加して貧富の差や男女差別の撤廃をめざして、新しい価値を獲得していく。それは、客観的現実もマスターナラティヴも帰属集団も一変した中で、天皇制への反発と父への反抗を経た、「軍国少女」から進歩的労働者への「翻身」だったといえる。
東京の中流家庭に育ったW1の語りにおいては、戦前の軍国主義教育の記憶が他民族蔑視と結びつけられて想起されることはない。戦時中にも朝鮮人の同級生と一緒に遊んだといい、中国・朝鮮に対して蔑視的な感情を抱いた記憶はない。それは同じ1931年生れの地方男性W2が、小学校時代の「興亜奉公日」の記憶として、「一人でも多く支那兵をやっつけるように」など敵愾心をあおる文章を書いて、兵隊さんへの慰問文を書かされたことを覚えているのとは対照的である。
「軍国少年」W2の終戦の日の記憶と共産党入党の契機
W1、W2それぞれの語りからは、戦後の急速な政治的・社会的変化が、中央にも地方にも隔てなく行き渡り、その中で敗戦後の虚脱感から立ち直った若者が戦時中の荒唐無稽さへの義憤にかられ、新しい時代への決意を新たにしていく過程が明らかである。敗戦体験に基く「翻身」が最も鮮明に語られるW1とW2の回想には、父や家族からの自立した価値意識が顕著である。
生まれ育った地方で終戦を迎えたW2がその日の記憶として語るのは、玉音放送の後に柔道教師が「日ソ中立条約を破って攻めてきたソ連が悪い、このことを忘れるな」と生徒達に語ったことである。W2はその言葉に、ソ連さえ攻めて来なければ日本は勝てたはずという悔恨や復讐主義の強さを感じる。実は、日本が国力をつぎ込んで戦った相手は中国で、100万の日本軍を投入し簡単に勝てると思っていたのに負けた。にもかかわらず中国に負けたということを認めたがらない意識は、あの日の柔道教師の言葉に明らかで、職業軍人の中にはそれが根強い心情として残っている[10]。
都内エリート学生W3の加害者性へと至る戦争の記憶の作業
さらにもう一人、敗戦時に東京高等師範学校付属中学校(現筑波大学付属高等学校・付属中学校)の生徒だったW3の語りからは、全く異なる戦争体験と終戦の日の記憶が明らかである。W3自身を含む同校生徒は、終戦の年の3月と5月に東京で大きな空襲があった後、戦況についてかなり正確な情報を得ていた教師らに引率され、勤労動員と称する集団疎開のため日光に移り住んだ。特に優秀な生徒はそれよりも以前に、各クラス一名ほどの割合で選抜され、教師引導のもとでさらに安全な遠方に特別疎開していた。
教師らに指示されて記したW3らの終戦の日の日記には、敗戦の原因はソ連の参戦と原子爆弾であったこと、日本は精神力では決して負けていなかったにもかかわらず科学の力が不足していたこと、などが共通に綴られている。従って彼らにとって今後の日本の課題は、まず科学の発展によって国体を保持し次の戦争に打ち勝ち、再び世界に冠たる大日本帝国を再建すること、となる[11]。
彼らエリート中学生の多くが新制高校・大学と進むうちに、W1に影響を与えた男子達のように、国体意識や皇国史観にとって代わる戦後の新しい学問と思想を身につけたことであろう。しかし少なくとも彼らの敗戦体験には、中国に負けたという意識やアジアの中の日本という図式は、全くなかったことを指摘しておかなければならない。
戦後民主主義教育を受けてジャーナリストとなったW3は、自ら体験した東京大空襲の悲惨さが忘れられず、60年安保やベトナム反戦を通して、専らアメリカによる原爆や空襲の被害の記憶に基いて反米感情を新たにしてきた。彼が後年、日本の中国に対する加害性を認識するのは、東京大空襲の記録の発掘・保存活動に関わるなどして、自らの被害者性ととことん向き合う中で、日本の侵略戦争の被害者である中国の人々の無念さに思い至ることができたからだった。
2-1-2 中国観における「翻身」とその語り方
戦後の労働運動を通して、人権や平等の意識を高めたW1は、さらに友人に誘われて1953年に設立された勤労者のための夜間学校「文学学校」に入った。そしてそのような活動を通して労働者詩人の男性と知り合い、両親の説得に苦労した末、1955年に結婚した。そして、共産党員だった夫が職場で馘切りに遭い、やがて日中友好協会の本部に勤務するようになって、ようやくW1は中国侵略の加害性と向き合うことになる。夫が「三光作戦」に関する本を持ち帰り、W1にも読むよう勧めたからだ。
その時はじめてW1は、「神の国」と信じていた日本が行った侵略戦争の実態を知った。その憤激と贖罪意識が、以後日中関係に深く関わってきた最大の理由だと言う。1962年にはW1自身も日中友好協会に入り、以来、二人の子供を育てながら、生活の物心両面において日中友好運動に関わり主体的に活動していく。
一方、戦後育ちで1963年に大学に入学したX1は、まず、1966年に学生訪中団の一員として初めて訪中した時、香港から入って見た中国の強烈な印象や帰国後のカルチャーショックについて、感覚的に語る。以来中国に対して、巨大な未知なる隣国、いついかなる時も知る努力と交流の道を絶やしてはならない相手、という認識を持ち続ける。にもかかわらず当時は国交さえなかったために、そのような認識が、国交回復のために旅行業はどうしても必要だと思ったという信念として表明される。
1953年生れのY1は、戦後生まれの世代にしては珍しく、日共党員だった父の経歴と思想遍歴から語り出した。『資本論』の熱心な読者だった父は、なぜか中国への関心も高く、毛沢東が理解できれば中国のことはわかるはずだと思っていたらしい。Y1が中学生の頃には、人民のための国家、日本にはない理想郷、という中国のイメージを語っていた。
そんなY1自身が、父を媒介とせずに中国と出会うのは、文革期に溢れた中国関連の書籍を通してだった。本多勝一の著書を片っ端から読み、日本が中国に対していかにひどいことをしたかを知った。中国革命も毛沢東思想も戦争の贖罪も、文革と軌を一にして認識されたといえる。
逆にZ1にとっては、子供時代に読んだ中国の小説で、人々の生活や生き様を感じて魅了されたことが記憶に残る中国との出会いだったが、文革期の中国に対しては冷ややかだ。1971年に入学した大学では、教材がみんな毛沢東や文革のことばかりで「えらくがっかりしたし、苦痛だった」のだ。
いずれにせよ戦後育ちの3人には、中国観の形成において侵略戦争の加害性や贖罪意識が明示的に語られることはない。Y1でさえ、侵略戦争についての知識は個人的な贖罪意識を呼び覚ますというよりは、国家賠償を当然と考える一つの政治的見解として表明されている。
2-1-3 加害性の封印と女の非政治化への社会的・家庭的圧力
W1が中国観における「翻身」の契機としてあげた「三光作戦」に関する本とは、中国の戦犯収容所で思想改造を受けて帰還した元戦犯の加害証言集(初版1957年)だったと思われる。彼らは1956年に帰国した後、中国での人道的な処遇とは対照的に、日本で「洗脳」のレッテルを張られたことなどから、中国帰還者連絡会=「中帰連」を結成して加害証言活動を開始した。しかし戦後の日本社会ではそれを封印する政治的・社会的圧力が強く作用していたとして、以下の三点が指摘されている。第一は、高度経済成長によって戦争の時代を過去のものとし、被害者意識を核とする平和意識が定着したこと、第二に、1950年代に戦傷病者戦没者遺族等援護法や軍人恩給復活など、利益誘導型政治によって遺族の取り込みが本格化したこと、そして第三に、1960年代から70年代に戦友会の結成が相次ぎ80年代前半にかけて活動が活発化して、その多くが戦争の加害証言を抑圧する効果を持つことである(岡部・荻野・吉田裕2010: 157-160)。
一方、家庭内での圧力として、概ね自由な家庭環境に育ったと思われるZ1が、次のように語っている。
当時の風潮をみてると、加害者であることの意識が随分希薄な国なんだなと思った。
自分で戦争しかけたんだけど、原爆を受けたという被害者である日本人を強調することはあっても、盧溝橋事件を起こして勝手に中国大陸を侵略していかにひどいことをしたかという加害者の意識というのは、自分の祖父にしてもいっさいなかったです。
母親は従軍看護婦で海外の戦場に行っても、捉えられた捕虜は外科の練習用に切り刻まれたということを経験してるんです。その母からも加害者側になった話というのはいっさい聞いたことがない。最近はつらつらと言うんだけど、若いころはいっさいなかった。自分たちは一生懸命やったのにかわいそうだったという話ばかり。
それで子供心に違和感があったんです。やってる人がいればやられた人がいて、やられてる人はつらいだろう、と。たとえば母は沢山の日本人がロシアに連れていかれて酷い強制労働を受けたとすごく怒るんだけど、じゃ日本人がやった強制労働はどうなの、という話には絶対ならない。言うと怒るから話が進まないのね。そんなことない、と否定になったり、当時はしょうがなかったんだ、ということになるの。
戦争の話に関してはすごく話しづらい雰囲気だったなぁ。
Z1はまた、職業軍人だった祖父が、戦後になっても満州で自分達が支配していた中国人のことを悪く言っていたことについて、「理解できなかった」と表現した。その気持ちは戦後民主主義世代の贖罪意識のようなものなのか、という私の質問に対してZ1は、「女の子だったってこともあるし、あんまり政治的に考えたことはないな」と答えた。女と政治を切り離すジェンダー規範が、そこに働いている。それがどのように内面化されたのかは、彼女自身にもわからないに違いない。
Y1の場合、戦後も思想弾圧への警戒心を緩めなかった父は、思想や主義について彼女に直接の影響を与えながら、それが誰にでも話せる話題ではないことも悟らせた。政治・天皇・宗教についてのタブーを父からの明確な戒めとして、Y1は決して家の外で政治の話をすることはなかった。
一方X1は、そのような抑圧性について語ることはないが、彼女自身の語り方には明らかな脱政治化・相対化傾向がうかがえる。これについては後述する。
2-2 中国観における「翻身」は後の文革認識をいかに規定したか
2-2-1 「翻身」の結果としての文革認識とその規定要因
W1が文革を認知するにあたって、ほとんど唯一の情報源は日中友好協会の機関誌だった。同協会が日中共産党の関係決裂の影響を受けて分裂し、夫と共に「日中正統」に移っってからは、情報の制約性がますます強まる。
現在の時点でW1自身が語る彼女にとっての文革とは、毛沢東が「三大差別」をなくすために始めたものだった。都市と農村、工業と農業、頭脳労働と肉体労働という三つの差別をなくすという理想は、まさに彼女が労働組合運動を通して目指していた理念と相通じるものがあった。すなわち、戦後の新しい思想と運動に触れて目覚めた平等という理念的価値、「日中戦争」をめぐる歴史認識の転換によって得た贖罪意識とそれに基く日中友好の信念という倫理的価値、それを妨害されたことへの感情的反発などである。言い換えれば、W1の文革認識は、戦後の「翻身」によって規定されたもので、身近な外集団への反発とマスター・ナラティヴへの対抗によって、国交正常化を促進する運動としての文革認識だった。
2-2-2 中国観と文革認識の相互形成
W1とは対照的に、戦後育ちの三人の場合は、新中国に対する認識と文革認識とが同時期のほぼ同じ文脈の下で相前後して形成された。
その中でX1は、1966年の現地体験に影響された文革認識といえるかもしれない。当時も今も、政治イデオロギーに捉われることなく、日共系・反日共系双方の友人とのつき合いが続いている。彼女が日中友好協会に属さず、シンパに留まっていたことの意味が大きい。齐了会事務局の仕事を通して、あるいは反日共系とはいえ旅行社の日中旅行業務という仕事を通した友好運動の中で、個人同士のつながりを基本とした交流活動を続けたからだ。
X1は文革期の訪中についても、脱政治化・相対化された語り方が特徴的である。初めての訪中は1966年の夏で、学生達が騒いでいる感じはあったし大字報も出てはいたが、まだ紅衛兵が街頭に繰り出す前のことだった。「貧しいながらもすごく一生懸命に努力している、その真面目さ、生きることの切実さ、国造りの真摯さに感銘を受けた」が、しかし「今思うと、一から十まで真面目だと続かない」「当時の中国は規律があってゴミひとつ落ちてないとよく言われたし、確かにそうだったが、今思えばモノ不足で、食料はもちろん散らかすビニール袋もなく、新聞紙だって捨てるくらいなら活用していたから」なのだ。
1967年頃には、学生運動の高揚はやがて権力闘争に変わり、理論的には正しいことをやろうとしたのかもしれないが色々な矛盾が大きくなって、X1も戸惑うばかりだった。文革期の混乱に、中国はどうなっていくのか、という思いはあったが、それをちゃんとみておかなくてはいけない、見ておく人がいた方がいい、と感じていた。紅衛兵運動を「ジャリ革命」とこきおろした大宅壮一の文革ルポでさえ、X1はそれも一つの見方と受け入れた。
Y1の父がある時から北京放送をあまり聞かなくなり、中国から距離をとり始めたのは、その大宅壮一の文革ルポがきっかけだったらしい。しかしY1自身は、父からの影響で理想化した人民中国のイメージと相まって、その国がやっている新しい革命というだけで肯定的に受け止めることができた。西園寺公一が民間大使で日中の架け橋になっている、という話も父から聞き、その長男である西園寺一晃が書いた『青春の北京』にはたちどころに感化された。
2-3 文革終結後の歴史的認識転換
2-3-1 文革認識の諸類型と否定的変化の受け入れ難さ
日本における文革認識について、網羅的な把握をめざし、それが表明される領域や集団内外との関係性に注目して類型化すると、いくつかの典型が浮かび上がってくる。その一部について、客観的変化の受け入れ難さとその意味転化の概要を述べる。
A. たとえば1950年代に親中国派となった保守党政治家の文革認識は、日中国交回復を実現するという政治・外交上の目標達成の道筋において表明された。その意味では目的志向であり、いわば手段的であり、内外の反中国・反共勢力に対する対抗的な認識であった。アメリカの対中外交の転換と日中復交実現によって、彼の目的は達成され、その後の文革の否定的帰結については、全く言及も回想もされない。それは彼の文革認識が、政治としてのそれであったことの証に他ならない。
B. また、当時の北京特派員だったジャーナリストは、中国で実感するのとは程遠い暗いイメージや権力闘争説ばかりが海外で伝わっているのに対して、明るい文革の実態を伝え、大衆自身が起ちあがった革命なのだという点を強調した。これまた国交正常化を目指した目的志向と対抗性の強い政治的な文革認識だったといえよう。現在の時点では、当時は本当に凄惨な出来事については知らなかったのだと言い同情も示すが、それでも現地の人々の明るい表情や熱心さが今なおリアルに想起されることも確かなのだ。事後的に知り得た知識によって、彼が現地で見た明るさや平穏が上書きされることはなく、かつての文革認識が完全に転換されることはない。
C. それとは対照的なのが「幸福な社会」や「革命路線」といった価値志向性の強い、革命理論・思想としての文革認識である。文革期の中国に長期滞在するなど、言語と概念と思想を同時に習得することによって、毛沢東思想を内面化した彼らは、いずれも「毛沢東に憑かれた人々」の、中国に対する「隙間のないほどの理想化」を通しての文革認識であった。文革が権力闘争に他ならないことを突きつけた「林彪事件」[12]は、彼らの認識を揺さぶる出来事だった。
それでも彼らが、文革の否定的事実経過を受け入れるには何年もの年月が必要だった。また過去の自分の認識のあり方そのものを問い直すことによって、ようやく中国を対象化することができるようになった。しかも、中国を総体として客体観察の対象とするのではなく、たとえば一人の顔と名前を持つ具体的な中国人を通して再認識し、その中国との新たな関係を再構築するという変化が必要だった。それが、長い苦しみを伴う緩慢な過程として語られた「翻身」である。
D. それに対して戦後世代として特徴的なのが、大学の寮やサークルで日常的な共同性もしくはバリケードの中の親密性を通して、革命理論や毛沢東思想にふれ、特定のセクトの理論や方針に同一化していった新左翼の活動家である。彼らは「永続革命」「不断革命」としての文革に魅かれ、「造反」の表象として心情的に共感し、その意義に注目することはあっても、文革や毛沢東思想を全面的な拠り所として自分たちの運動を考えるということはなかった。その意味で、彼らの運動の求心力を増すために文革のスローガンを使うなど、手段的傾向も強かった。
以上のような類型の中でも、政界・ジャーナリズム・中国研究・共産主義理論研究といった領域では、当時女性は圧倒的に少数であった。本稿がとりあげる四人の女性が、日中友好協会、齐了会、ノンセクトの一般学生に限られたのも、そこだけは女性の比率が相対的に高かったことを反映している。彼女らの文革認識は、中国での推移を追い明確な出来事や変化を認知して転換したわけではない。次項では、認知度の最も高かった日中国交回復を契機とした変化について述べることにする。
2-3-2 日中国交回復実現の両義性
侵略戦争の贖罪意識に基いて日中友好一筋の信念を貫いてきたW1にとっては、国交回復の実現は、戦争の終結と友好運動の公的認知という意味で、とりわけ大きな達成感があった。敗戦後の労働組合運動を共にした旧友たちは、必ずしも日中友好に関心があったわけではなく、特に文革期は、W1が奮闘すればするほど、彼女についていけない様子を露わにした。それ以外の話題を通して旧交は続いていたが、それは青年期の「翻身」を共にした連帯感の持続性のためだった。それでも孤立しがちな情勢を乗り越えて、ついに国交回復の日を迎えられたことは、旧友たちにも誇れる成果だったといえる。
齐了会のX1にとっても、日中復交は自分が願ってきた日中間の自由な往来にとって前提条件であり、歓迎すべきことだった。それとは対照的に、たとえば齐了会の男性メンバーX2は、1972年の日中復交実現を自分達の運動の終りを感じさせる出来事として記憶している。中国政府と自民党政権という、あれほど反感を持ち合っていた者同士がいとも簡単に結びつく。成果はオフィシャルなところに持って行かれてしまう――そんな裏切りに合ったような感じだった。X3も、戦争責任や戦後賠償の問題に対してあまりにも政治的な処理がされたことへの疑問や、それを追究することなく「万歳」ムードを盛り上げるマスコミに対する反発から、国交正常化後の中国とは距離をとるようになっていく。
理系のノンセクト学生だったY1とその父にとっては、国交回復の実現は恩恵をもたらした。Y1は大学卒業後神奈川県日中友好青年の船に乗って、小遣い程度の費用で中国に行き、その時に随行してくれた通訳と親しくなって個人的な交流を始めた。その縁でY1の父も、日本語を教えるために中国に滞在することになった。
一方、地方の国立大学の理系大学院生だったY2は、ノンセクトの一般学生として心情的には身近な先進的勢力に同一化していたが、身近な先進的勢力が提示するモデルの一つが、「国交回復・文革肯定・反佐藤政権」という三点セットだった、と述べる。その根拠として「侵略戦争の清算」があり、彼にとっても国交回復は喜ばしいことであった。
全く逆にZ1は、国交正常化実現後一挙に活発化した中国との交流の中で、ますます中国と中国人に対する反発を強めるような出来事を体験する。ある中国物産展の手伝いをした時のこと、中国からやって来た高級幹部たちと子供達の貼りついたように不自然な笑顔に、名状しがたい嫌悪感を覚えたのだ。「中国という国に挫折」したという感じに近いものがあり、中国関係の勉強を続ける意欲も失せるほどだったという。彼女にとっては、子供時代の読書を通して脳裏に描いた中国のほのぼのとしたイメージが絶対的で、文革期の中国は国交正常化の前後を問わず、失望させられたことだけが語られる。
【第3章】 歴史的認識転換をめぐる「翻身」の意味づけ
3-1 「認識の誤り」意識の希薄
本研究が対象とした幅広い世代と様々な属性の人々は、文革が当初の理念とは全く異なる結果に至っても、かつての自分の認識が誤っていた、という語り方をすることがない。従って認識転換ということもありえない。たとえばW1は、彼女と彼女の帰属する集団にとって目標であった国交正常化が実現したことによる達成感が大きかったため、文革後に知り得た事実については、当時は知らなかった事実として比較的抵抗なく受け入れる。反面、文革という事象そのものについての理解が深まったり、かつての認識が改まったりした様子はない。すなわちW1の場合は、目的志向性と集団による媒介という要因によって、受け入れ難さは低減するが、事後的な語りも少ない。
ただ複眼的な物の見方をしなければならない、ということを教訓として得たという言い方に、そのような物の見方が出来なかったことに対する反省が察せられる。そしてそのような見方は、たとえば尖閣諸島問題などを機に、反中国的な言論が巻き起こった時にも、かつてのような頑なな中国擁護の姿勢をとらない、国家を超える志向性として現れている。「男子達の影響」や「夫の勧め」に言寄せて個人誌上の転機を語ってきたW1が、夫亡き後にそのような位相の異なる視点を獲得したことこそ、「翻身」といえよう。
それは、たとえば個人的な読書を通して直接毛沢東の言語に影響を受けたY1の、完全に個人化された認識とも異なっている。Y1は、誰に対する対抗的な認識でもなかったが、その後、文革の否定的な事実を暴露した本をいつしか避けていることに気づく。事実認知や認識転換のルートを自ら遮断しているのだ。当時の日中関係や文革に対する関心と熱意の程度とは裏腹に、W1がクールに受け入れている事実をY1は拒否し、今でも「老三篇」について熱く語る。自分が中国に胸躍らされていた頃、「他にああいう国はなかった。天の半分を支えているのは女性、という言い方も初めて聞いた」と、ふり返る。それに、文革期の中国を肯定し今の中国を否定的に見るということは、中国観が変わったということ以上に、かつても今も変わらない一つの軸で中国をみているということを意味する。それは人民の側につくかどうか、虐げられた人が希望をもてる国かどうかという軸だ。その軸に沿ってY1は、文革期の毛沢東の中国とそれに胸躍らされた自分を、あらためて肯定的に語る。
Z1は、地域のミニコミ誌などを通して個人レッスンの教師を個人的に探し続け、そうして出会う中国人や彼らが教材として選ぶテキストを通して、今の中国を知る努力を続けている。今なら「中国人が生活の中でもっている庶民的な感覚を実に見事に描いている」小説など、多様な中国語の出版物が入手できる。中国語の理解力が向上するにつれ、Z1自身が日本人の感覚からずれて中国人的になっていくような気がする。
優れた人材との出会いにも恵まれて、彼女は着実に中国との関係と中国語の実力を向上させている。「逆に今の方がおもしろいなあという気がする」というのはそのためである。Z1が中国人的になっていくのと同時に、彼女が日本で出会う中国語教師もまた、かなり日本化された中国人である。ある意味で、本当の中国人ではないかもしれない。しかし、彼らとZ1との間には、日・中の間に何があったかの知識はそれぞれの立場で持ちながら、決して国家を背負わない人々同士の交流がある。かつてZ1が嫌悪した、みせかけの友好を演出する必要のない関係が築かれている。
それにしてもY1とZ1の鋭い問題意識や豊かな感性は、個別のミクロ状況を輝かせることはあっても、一般社会においては無言のマスの中に紛れている。それは逆に、全体社会の埋蔵資源の豊かさを意味するが、彼女たちを全体社会へと媒介するものがないというのは、やはり今日的な社会問題だといえよう。二人は、ともに家庭内で母や父の言動を通して、「日中戦争」や中国や政治について公に語ることを封じられ、そのことに対抗的な問題意識を持ちながら、結果的には政治的発言や行動を自己規制することになった。その意味で、民主化されたはずの戦後の日本において、中国への加害者性を封印する政治的・社会的圧力が、女の政治化を禁じる家庭内圧力とともに、いかに作用したかを示唆する事例といえよう。今でもなお、加害証言を封印するだけでなく、中国について語ることを抑圧する社会的圧力があるとすれば、それに抗して見せかけの友好を演出することを強いる構造もまた潜在するということになるだろう。
3-2 認識転換の受け入れ難さと「私」の一貫性の主張
本研究では、日本における文革認識を、当事者の記憶の語りに基いて記述し「翻身」という観点から分析することによって、以下の発見がもたらされた。すなわち、客観的現実が変化し公的言説が転換しても、それを個人レベルの認識転換として受け入れ内面化するには、いかに長い時間と多くの偶然的・意識的要因を要するかということである。いわば言説空間におけるパラダイム・シフトは、それが大規模であればあるほど、その変化を内面化し主観的現実として受け入れられない人々を多く巻き込み、彼らを表向き大勢に順応させながら、反動の潜在勢力として温存することになるのだ。
そのような事実の変化の受け入れ難さ、認知情報を評価情報に転換することの困難が大きいケースは、第一に理念的・倫理的価値志向が強く、第二に集団準拠的ではなく主体的な個人的行為を通して、第三に対抗関係が顕著な状況において形成され表明された認識の場合である。日本における文革認識の多くは、既に評価情報として加工されたものを通して、個人的な読書や思索の象徴的現実において内面化され主観化された。その過程が、至高の現実における経験的事実と結びつくことなく、帰属集団との関係も比較的薄く、あくまでも個人の飛び地的な現実の中で生じた場合が、最も困難である。それに対して事後的批判や責任追及によってではなく、当事者自らがかつての認識のあり方を根源的に問い直し、あるいは将来に向けた中国との新しい関係の構築を通して、「翻身」とみなしうる根本的・個人的変化を遂げる過程が重要である。それを可能にする理論的枠組みとインフォーマルな関係があって、初めて当事者自らの反省が深まる。
最後に、「翻身」の意味を、自我・主体・アイデンティティという問題系との関係において考察することが本稿の最終的な課題である。
たとえば、文革期の中国を訪れ現地の人々の貧しさと純真な熱意に接して感動した学生訪中団のメンバーX3が、当時の帰国文集に寄せた自分自身のナイーヴな感想に不快感を抱くという事例がある。それを通して明らかにされるのは、客観的時空上の文脈依存性と主観的一貫性との交差する存在である自己というものの複雑さである。すなわち、心情にしろ認識にしろ、過去のある時点において特定の状況に規定されそれに応えたものであり、それとは異なる状況の現在からふり返れば、その異質性だけが浮かび上がる。反面、にもかかわらず過去のその時点特有の心情を表明した自己は、現在の時点からふり返る自己との連続性から逃れられない。そのことの証として、彼らは過去の自分の心情を表明した文章にそっくり共感することはできないにもかかわらず、それを現在の自分と切り離して対象化することができない。上記の不快感は、そのような他者性と主観的同一性との間で引き裂かれる不快感として説明できよう。
X1が中心となって進めている小規模な齐了会の同窓会的会合は、そのような不快を伴なう記憶の場でもある。宴会の締め括りには、かつての革命歌や毛沢東を讃える歌が歌われたりもするが、革命性や政治性が蘇るわけではない。集合的記憶は現在のためにあり、X1の旅行社を通じて再び中国各地を訪れる時、過去への懐かしさというよりは、今の中国をそれぞれの関心に合わせて楽しんでいる様子が、文集や写真集からうかがえる。若い頃の訪中体験の上に、中国の歴史や芸術や文学への興味を育んだ人々が、社会関係資本や文化資本を蓄積してきた成果を共有し合う貴重なネットワークとなっているのだ。
かつての政治性を脱した彼らの非政治性は、それ自体、時として政治的になりうる。彼らが、内面的な葛藤はともかく、日本政府からも中国共産党からもそれぞれ距離をとりながら、日中問題の穏健な批判勢力として存在することには意味があるだろう。
それにしても、本論の対象は誰一人として自分が変わったという語り方はせず、「私は私」なのだという一貫性を主張する。従って過去の書き換えや全面的な言語世界の転換もない。語り直された過去から現在に至る道筋があり、到達点である現在において未来に向かい続ける自己が至上の自己である。それはまた唯一無二の個人誌の管理者でもある。
参考文献
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[1] 1995年に出版された宮台真司の著書『終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル』(筑摩書房)から。
[2] 雑誌TIME
1987年6月8日号の記事 “Life
and Death in Shanghai” をはじめ、鄭念著『上海の長い夜』上・下(原書房、1988年)や、張戒著『ワイルド・スワン』上・下(講談社、1993)、陳凱歌著『私の紅衛兵時代』(講談社、 1990年)などが印象に残っている。
[3] 田壮壮監督『青い凧』《藍風箏》Blue
Kite(長威製作有限公司、1993年)。
[4] 1981年6月の中国共産党第11期第六回中央委員会全体会議=「六中全会」において審議・採択された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」。その直後から文革は、ひたすら「徹底否定」されていく(福岡2008: 96-97, 106-109)。
[5] 現代中国研究者の加々美光行も、同様の観点から問題提起をしている(加々美2001, 2007)。
[6]
「翻身」は、『現実の社会的構成』の訳者山口節郎が用いた日本語だが、中国語では、特に新中国成立後、抑圧されていた身分の者が革命によって解放されて生まれ変わる、あるいは中国の戦犯収容所で元皇軍兵士が人間性を取り戻した、という意味でポジティヴに使われる中国語でもある(姫田2008:
39-40)。
[7] 「翻身/態度変更」という訳語の語感では、大きな「変化」という意味合いが強く、「変更」や「改変」などを意味するalterに近いといえるが、バーガー=ルックマンの原典で用いられているalternateの名詞形は、同じ仕事を交替でやる、あるいは一つの役柄を複数の役者が演じる、という場合に用いられる単語である。
[8] バーガーは、宗教的な含意のあるconversionに代わってもっと中立的なalternationという語を提起したのだが(Berger1963)、1970年代以降のアメリカでは、新宗教への入信などを中心としたconversion研究が盛んになった。その文脈でバーガーらのalternation概念も言及され、類似性と相違が指摘されている。いずれにせよ古今のconversion研究に共通する概念は、「根本的・個人的変化radical personal change」という一点のみとされている(片桐2003: 62)(Snow & Machalek 1984: 168-169) 。
[9]
1965年、日中青年友好大交流が行なわれたのを機に、第一次学生参観団が中国を旅行する機会を得た。団員は帰国後「齐了会」を結成し、毎年学生友好参観団を派遣する運動を開始した。
[10]
戦後の日米安保体制下で、大東亜戦争は「太平洋」(日米)戦争へと改名され、日本の戦争物語からはアジアと中国侵略が巧みに排除されていたということや、中国が「抗日戦争勝利」を謳うのとは対照的に、日本にとっては「アメリカに負けた」戦争であり、その意識は多くの日本人をより一層の欧米追随へと向かわせたという問題は、つとに指摘されている。前者は、キャロル・グラックの「記憶の作用」『近代日本の文化史8 感情・記憶・戦争』(岩波書店、2002年)、後者は加々美光行の『逆説としての中国革命〈反近代〉精神の敗北』(田畑書店、1986年)からの引用である。
[10] 生徒らの記録は、2000年に文集「八月十五日 日光における痛憤の記事」として東京都内の「昭和館」図書室に保存されることになった。この文集の「編集後記」によると「戦後は戦時中のことをすべて否定して、戦時中は小・中学生には全く事実を知らされず、「日本は必ず勝つ」とのみ教えられていた」などという主張がなされるが、「現実は学校により差が大きく」、同中学では多くの教師がかなりの程度「日本の国力と英米諸国の国力の差、特に資源や生産力の差のある事を教えて」いたという。
[12]
毛沢東の個人崇拝を押し進め彼の後継者の地位に上りつめた林彪(当時の中国共産党副主席)が、毛沢東暗殺を企てて失敗し、1971年9月に国外逃亡をはかって墜落死したとされる事件。
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