2012.07.17 Tue
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.1970年代、フェミニズムがジェンダーという用語を持ち込んだ。
ジェンダーとは、男もしくは女というそれぞれの項なのではなく、男/女に人間集団を分割するその分割線、差異化そのものである。したがってジェンダー論の対象とは、男もしくは女という「ふたつのジェンダー」ではなく「ひとつのジェンダー」、すなわち差異化という実践そのものが対象になる。
この差異化という実践は、政治的なものである。政治的というのは、そこに権力関係が組み込まれている。男/女の二項は、男でなければ女、女でなければ男、というたんなる排他的な二項関係ではなく、非対称的につくられていて、その実、項のあいだに互換性はない。
男 man、hommeはいつも人間を代表し、男を標準として女woman、femmeはそれとの差異化においてのみ定義される。女はつねに差異をもった性として有徴化される。ジェンダーは、差異化の記号のうちでも屈強の記号、歴史性と文化とをふかく背負い、その「自然性」がもっとも疑われにくい記号のひとつである。
1980年代、フェミニズムは、執拗で徹底的な言説分析のなかから、「差異の政治学」と言うべき理論を展開していく。「個人的なことは政治的である」というラディカル・フェミニズムの直観が示した認識は、ジェンダー理論の洗練と展開のなかで、「遠くまで」来た。わたしたちはそこに理論の力を見てとることができる。理論もまたひとつの規則的実践、そしてフェミニズムは、何よりも対抗的な言説実践だからである。
フェミニズムはジェンダーという概念によるパラダイム転換をもちこんだ。どんな領域もジェンダーだけで解くことはできないが、ジェンダー抜きに論じることはできなくなった。パラダイムの追随者になるのはたやすいが、どうしたらパラダイム革新者になれるのだろうか。
パラダイム革新は無から起きるわけではない。パラダイム転換は、外からやって来る。その担い手は異質な他者だという。経験を組みかえるカテゴリーの萌芽は、「臨床の知」のなかに満ちみちている。
わたしにとってエイリアンなものを「聞く力」をもつこと。そして、なによりこの本に出会うこと。革新は本書を読んでから。
大きな可能性を秘めた小さな芽の兆しを感じることだろう。
堀 紀美子
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