上野研究室

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『厭女症』序文 ちづこのブログNo.82

2015.02.09 Mon

ひさしぶりのブログ更新です。
中国で簡体字版訳『女ぎらい』が刊行されました。なんと!中国語版タイトルは『厭女症』というのだそうです。
たのまれて中国語版への序文を書きました。以下ご紹介します。
目下韓国語訳も進行中です。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.
以下本文*********************
中国でわたしの著書『女ぎらい』を翻訳していただけるという。副題には「ニッポンのミソジニー」とあるから、ここにいろんな国を代入すれば「中国のミソジニー」「韓国のミソジニー」「ベトナムのミソジニー」など、さまざまな社会の応用問題が解けるだろう。もとより本書のネタ本は、アメリカ人でイギリス文学研究者、イヴ・セジウィックの『男同士の絆』だから、「イギリスのミソジニー」も「アメリカのミソジニー」もあるわけだ。残念ながら、ミソジニーの存在しない社会を考えることはむずかしい。
本書は理論と実証からなっている。セジウィックの提供したホモソーシャル、ホモフォビア、ミソジニーの3点セットからなる理論装置はとても使いでがある。わたしたちはこの理論のおかげで、ホモソーシャルとホモセクシュアルがどう違うかを理解することができるようになったし、なぜホモセクシュアルな男性が「女性化」されるのかもわかるようになった。そして何より、女を「他者化」することで、男らしさというものが「女(のよう)でないこと」によってはじめて定義されていることを知った。
この理論装置はあまりに切れ味がよいものだから、誰でも自分の手持ちの材料を切ってみたくなる。うーむ、なるほど、あの集団はホモソーシャルだったのか、いつも女の尻を追いかけ回しているあの男は、その実、ミソジニーだったのか・・・というように。そして現代日本と同様に、現代中国においても、おもしろいほどこの理論装置で説明できる現象が多いことを発見して、がっかりするだろう。それは男たちがいっこうに変わろうとしていないことの証だからだ。
「女は天の半分を支える」…わたしたちは社会主義中国から、この誇らしい言葉を学んだはずだった。ところが「改革開放」後、耳に届くことは、企業の男性選好や女性の就職難など、資本主義国と変わらない話ばかり。「婦女回家」という現象を知ったときには仰天した。日本の女性たちが主婦から脱することをのぞんでいるというのに、中国の女性たちは反対に家に戻って専業主婦になりたがってるなんて?社会の変化は矛盾だらけ。女の生きづらさはどうやら洋の東西、体制の違いを問わないようだ。中国には中国のミソジニーがある。誰かが「中国のミソジニー」について研究してくれることを期待したい。

ところでご存じのように日本語は中国語や英語などの外来語をとりこんで、クレオール的な言語として発達してきた。漢字仮名交じり文とか、外来語のカタカナ表記がそれである。日本語のこの特長によって、日本語は融通無碍に外国の概念をとりこんできたのだが、逆に外から来た概念を日本語に翻訳することを怠ってきたともいえる。日本ではフェミニズムやミソジニーという言葉は、そのまま音声表記をもとにしたカタカナことばとして流通している。フェミニズムは中国語で「女性主義」といい、女性センターは「女性中心」と訳されることを知って、感心したことがある。本書のミソジニーは「厭女症」と翻訳されるとか。うまさにうなった。「厭女症」というからには、れっきとした病気なのだ。それならホモソーシャルとホモセクシュアルはどう訳し分けられるのだろうか?興味が尽きない。
厭女症という病気には男だけでなく、女もかかる。ミソジニーという概念の強みは、女性の暗黒面をも説明できることだ。本書で説明したとおり、男のミソジニーよりも女のミソジニーのほうがずっとやっかいだ。なぜなら女性にとってのミソジニーは「自己嫌悪」となるからだ。それがわかれば、なぜ女同士は男を間にして対立関係におかれるのか、なぜ女の敵は女と言われるのか、なぜ母と娘の関係はこじれるのか・・・などなど、さまざまな謎が解ける。知ればただちに問題が解決できるわけではないけれど、知ることは少なくともそれに対処することの第一歩にはなる。

日本のフェミニズムは外国からさまざまな影響を受けてきた。本書もセジウィックというアメリカ人のクィア理論研究者の影響を受けている。そのせいで、日本のフェミニズムは欧米からの輸入品にすぎない、という人もいる。
だがそんな批判に対しては、最後に反論しておこう。ポストコロニアル研究でよく知られたガヤトリ・スピヴァクは、インド生まれでイギリス文学研究者、そしてアメリカ合衆国の永住市民権を持ち、ニューヨークのコロンビア大学で教えている。その彼女が日本に来たとき、ジェンダー理論のシンポジウムである西欧の研究者が「ジェンダー」という概念はもともと日本にはない概念ではないのか、とたずねたとき、彼女はこう切り返したのだ。
「どこで生まれた概念であれ、使い物になる概念ならばなんでも、使えばよいのです」
理論を実証に応用するとき、適用される対象や文脈に応じて理論はローカライズされる。本書を読んだ読者は、自分の属する社会での応用問題を解かずにいられないだろう。日本版ミソジニーをわたしが論じたように、中国版ミソジニーをきっと読者の誰かが論じてくれるだろう。いつかその本の日本語訳を読んでみたい。
そしてもし、この理論が説明できない現象があるとしたら…?それこそミソジニーから脱する新しい変化の兆しであることを、歓迎しよう。






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タグ:セクシュアリティ / 女性学 / 上野千鶴子 / セクシュアリティ研究