上野研究室

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原発再稼働 決めるのは私たち ちづこのブログNo.90

2015.06.12 Fri

またまた北陸六味から。高浜原発再稼働差し止め仮処分請求の福井地裁判決を受けて、書いたものです。
「司法は生きていた」の垂れ幕を持って地裁前に立った喜びの原告団のなかには、WANのなかま、敦賀市議の今大地晴美さんの姿もありました。以下、全文。

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北陸六味「原発 決めるのは私たち」
高浜原発再稼働差し止め仮処分請求の福井地裁決定の全文を読んだ。図解や別紙資料のついた全67㌻の、平明な文章で書かれたよくわかる日本語である。原子力の専門家ではない裁判官がよく勉強して、これも専門家ではないしろうとによくわかるように原子力発電のしくみや安全機構について説明してある。
判決を書いたのは、大飯原発運転差し止め裁判で「生命の価値と経済活動の自由とを天びんにかけてはならない」と、きっぱり言った同じ裁判官、樋口英明さんである。しろうとが判断してもリクツに合わない電力会社側の言い分に、ひとつひとつ丁寧に反論してある。
基準地震動が700ガルに想定してあるが、それを超えない保障は何もない、973・5ガルを超えたらお手上げだと本人たちが認めている、そのうえ原子力規制委員会の安全基準そのものが、使用済み燃料を閉じこめておくための堅固な設備が必要なのに「深刻な事故はめったに起きない」という見通しのもとにそれを要請していないとか、免震棟を造ることが安全基準の要請になっているのに猶予期間があるとか、「地震が人間の計画、意図とはまったく無関係に起こる」のにこんな規制方法では「合理性がない」……などなどもっともな指摘ばかり。
大飯原発訴訟よりも今回の高浜原発仮処分が一段踏みこんだのは、規制基準が「緩やかにすぎる」と言い切ったところにある。菅義偉官房長官も原子力規制委の田中俊一委員長もただちに反論して、新基準が「国際的にもっとも厳しい基準である」と主張したが、よその国とくらべてどうする、日本の国情に合わせて決めないと意味がないでしょ、と言いたくなる。なにしろ田中委員長みずからが「基準の適合性を審査しただけ。安全とは申し上げない」と発言してるのだから。判決はこの田中発言も引用している。
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おりしもドイツのメルケル首相が訪日して、ドイツは日本の原発事故に学んで脱原発を決めた、日本も同じ道を進むべきだ、と問いかけた。ヨアヒム・ラートカウの「ドイツ反原発運動小史」(みすず書房)によれば、ドイツで脱原発が実現するに至った過程には、「市民の抗議やメディア、政治、行政、司法、そして科学の相互作用」があった、という。そしてドイツにあって日本にないのは、これらの相互作用であると。
日本では3・11以前に何度も原発差し止め訴訟が起こされてきたのに、ことごとく敗訴してきた。原発政策推進の共犯者には司法もいたのだ。3・11以後、司法関係者のなかには、深く後悔しているひとたちもいることだろう。
そういえば原発推進の共犯者にはメディアもある。地方で「第四の権力」と言われたローカル紙のなかには、立地自治体の行政にべったり寄りそって原発批判の言論を封殺してきたところもある。媒体によっては、わたしのこの記事も検閲を受けただろうか。
あの事故以来、ふかく反省した市民は多い。科学者も反省した。司法も反省した。反省していないのは政治だけだ。まだ福島第一原発事故の「事故原因も確定できないまま」なのに、こんなに危険の多い再稼働に踏み切るなんて、ふつうに考えてもリクツが合わないのは、子どもにだってわかる道理だ。
政府と関西電力によれば判決の結果は「想定内」とか。上級審で覆ることを期待しているようだ。早くもその直後に川内原発再稼働差し止め請求を却下する鹿児島地裁決定が出た。司法のあいだでも判断が割れるこの判定、ほんとうに判断するのは政府でもなく司法でもなく、主権者であるわたしたちだ。(5月1日朝日新聞北陸版)






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タグ:脱原発 / 上野千鶴子 / 女性の政治参加