上野研究室

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『絶歌』書評 ちづこのブログNo.96

2015.10.10 Sat

ブログの更新が追いつきません。ようやく8/23付け熊本日日新聞に掲載した、もと少年Aによる『絶歌』の書評を転載できるようになりました。
本書が出て以来、手に取るのも読むのもためらいがありましたが、他の多くの書評を見ているうちに書かずにいられなくなりました。
以下本文です。

絶歌

著者/訳者:元少年A

出版社:太田出版( 2015-06-11 )

定価:¥ 1,620

Amazon価格:¥ 1,620

単行本 ( ページ )

ISBN-10 : 4778314506

ISBN-13 : 9784778314507

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「ことばだけが社会への通路」
少年A。
17年前、「酒鬼薔薇聖斗」の名で書かれた文章の、年齢に似合わない言語能力の高さに驚嘆した。
いま32歳になった青年の言語表現に、ふたたび感嘆した。
『絶歌』。遺族の同意を得ていない、と批判された。犯罪者が印税で金儲けをしてよいのかと責められた。出版社の商業主義が非難を受けた。実名で出さないことが譴責された。
だが、遺族に事前同意を求めていれば出版に至らなかっただろう。犯罪者が著書を出すことは、永山則夫の『無知の涙』を初めとして多々例がある。これまでそれが責められることはなかったのに、本書だけが責められる理由はない。実名で出せば、どんな運命が彼を待っているか、現代の日本では想像に難くない。「正義の味方」よろしく実名出版を唱えている人たちは、それがもたらすであろう苛酷な結果に責任がとれるのか?
これを書かなければ生きていけない、と思い詰めた元「少年A」から、生きるために、生き延びるために、表現の機会を奪ってはならない。ふたつの生命が奪われ、いまそれを奪ったひとつの生命が必死で生きようとしているときに、そのひとつの生命の可能性を奪うわけにいかない・・・そう思って、読んだ。
14歳。稚い万能感と自己愛で武装した自我の胞(えな)を破って、ようやく世界の未知に触れあう、傷つきやすい過渡期。世界から拒まれているという憎悪から全世界を敵にまわすほどの暴力的なエネルギーに満ちた危機的な年齢でもあることを、おとなになった者たちはもう忘れたのだろうか。
本書には書かれていないことがたくさんある。粉飾も自己愛もある。つくり話めいたところもある。ある書評は「ナルシシズムが鼻につく」という。別な書評は「こんな未熟なものを出すより、3年くらいかけて書き換えたほうがよい」ともいう。だが、三島由紀夫と村上春樹を耽読し、書物を読みあさって独学したという反時代的といえるほど精緻で技巧的な文体で書かれた本書は、少年Aの現在の「自画像」だ。そしてこのように文章で彫琢するほかに、彼は自分が何者であるかを確かめるすべがなかった。
人には忘れたい過去がある。忘れたくても忘れられないトラウマ的体験もある。そして他人には告げることのできないスティグマ体験もある。戦場体験、「慰安婦」、性暴力被害、震災体験。だが、少年Aのは、忘れることを禁じられた経験だ。にもかかわらず、決して口にしてはならない経験だ。語りあう仲間さえいない孤絶した経験だ。その経験を自分の生の中に統合しないでは生きていけない。ナラティブ(語り)の社会学は、それをくりかえし強調してきた。彼は言う。「自分の内側に、自分の居場所を、自分の言葉で築き上げる以外に、もう僕には生きる術がなかった。」
たとえどんなに未熟でもこれが彼の現在の「中間レポート」である。自分史は何度でも上書きされる。決定版は存在しない。「少年A」は何度でも「自画像」を書き換えたらよい。書き続けて生きればよい、ことばだけが、彼を他者へと拓き、社会へと生きさせる通路なのだから。「少年A」に本書を出した責任があるとすれば、沈黙することではなく、書き続け、生き続けることだ。その彼から、ことばを奪ってはならない。
村上龍が『13歳のハローワーク』で書いたことばを、覚えている。「作家」という項目に彼はこう書いたのだ。「最後の職業。死刑囚でもなれる。」






カテゴリー:ブログ

タグ:上野千鶴子 / 当事者研究