母が92歳の誕生日を迎えて10日目の夕方、叔母から電話があった。数日前、近くの温泉に行ったあと、息苦しくなり、目の前が暗くなって倒れたという。至急、家庭医に往診に来てもらう。先生から「2、3日、入院する方がいいよ」とすすめられたという。

 熊本は家庭医と病院との連携ネットワークがうまくいっている。かかりつけ医と共同で患者の治療を行う開放型病院(オープンシステム)の熊本地域医療センターへ入院。夜、病院の担当医と電話で話す。病名は「完全房室ブロック」、症状は「眼前暗黒感」と「息切れ」。治療は「心臓ペースメーカー植え込み術」しか方法はないという。「明日、京都から熊本へ向かい、母を説得しますので、どうぞよろしく」とお願いして電話を切る。

 翌日、病院を訪れると母は「何しにきたの?」と、すました顔。先生からわかりやすい説明を母と叔母とともに受けて週明けの手術日が決まる。待機中、かねてから心臓と肺の周囲に水がたまっていて心拍数が低下、急遽、外付け除細動器をつけることになり、HCU室(準集中治療室)へ入る。

 器具やチューブをつけていても本人はいたって呑気。憎まれ口を叩くかと思えば雑談に笑って答える。その晩は中秋の名月。「満月がとっても大きかったよ」というと「北京の仲秋節は、ドラを叩いて大騒ぎして賑やかだったね」と70年前の思い出を話してくれる。

 いつも枕元にラジオがないといけない。昔から四六時中、ラジオで音楽を聴いていたから。入院中、「ラジオはどこ?」と本人から直接ケータイがかかってきてびっくり。呆うとしたところがあって、ケータイもあまり使えなくなっていたのに。

 手術当日、「がんばってくるけんね」と笑って送られていった。手術は2時間で無事終了。心臓ペースメーカーを鎖骨の下に埋め込み、2本のリード線を静脈に通して心臓の心房と心室に装着。モードDDD、レート60~130に設定。医師や看護師さんに心から感謝。いただいた命、大事にしなければと思う。

 退院までの日々、事務的な手続きに走り回る。後期高齢者減額認定証の申請、一級障害者手帳申請。92歳の母も88歳の叔母も何度いっても介護保険の申請をしたがらなかったので私が代理申請。手首式血圧・脈拍測定器を買ってきて毎日、脈拍数を測る練習をする。


 どうしても片づけないといけない仕事のため退院までの数日、京都に戻る。すべて仕事を終えて、日曜日は孫の幼稚園の運動会に。秋晴れのなか、ダンスや選手になって走るリレーを応援する。翌日、母の退院を前に再び熊本へ。


 京都-熊本間は九州新幹線のおかげでずいぶん近くなった。博多まで母親の墓参りにいくという85歳になる一人旅の女性とごいっしょする。「昔は夜行寝台特急ブルートレインで往復したことを思えば、ほんと便利になりましたよね」と同じ思いを車中、話しあう。

 退院当日は秋晴れの空。「どこかへ遊びに行きたかねぇ」とタクシーの中でいう。気楽なものだ。気分もよく、お土産の赤福を食べ、食事もすすむ。お祝いの魚を見て台所に立ち、自分で調理しようとするので慌てて止める。主治医の紹介状をもって家庭医に報告にいく。

 退院後、明け方に少し息切れするようだ。心臓拡大と肺のまわりに水がたまり、長く横になると息苦しい。半座位にして胸郭を開くと楽になる。すぐに民生委員を通して地域包括支援センターに連絡、その日のうちに介護ベッドが届いた。リクライニングにして角度を調節すると長時間横になっても大丈夫そう。昼間は椅子に座って、ほんとに元気なのだ。改めて介護保険を利用できることに感謝。医療と介護のネットワークの素早さに感服する。

 いつかこんな時がくるとわかっていた。京都へ母と叔母を呼んで暮らしてもらう準備もできていたが、やっぱり二人は古くて不便な自宅がいいらしい。

 衣替えの季節、服や家具の入れ換えを手伝う。タンス、長持ちから冬物を出し、夏物を仕舞う。それにしてもなんでこんなに障子や襖があるんだろう。張り替えたばかりの障子は白くてきれいだけど、開けたり閉めたり、くたびれる。数えてみたら障子が26枚あった。


 夏の終わり、台風18号の突風で母の家のガラス戸が割れたという。普段、叔母の家に住んでいて、ときどき風を通しにいく家だが、台風一過、ガラスが廊下に散乱していてびっくり。京都から駆けつける。古い板戸はガタガタと閉めにくい。急ぎ、建具屋さんに頼んでサッシの雨戸とガラス戸を誂えてもらう。庭の草木も植木屋さんと追いかけごっこで生い茂るばかり。さて、どうするかなあ。

 そうだなあ、これから何かあったら私が動こう、京都-熊本を往復して。今はネットの時代、仕事も用事も宅ふぁいるメール便やPDFで迅速に対応できる。二人とも生まれ育った家で最後まで暮らしたいだろうから。

『あとや先き』、中野重治・原泉、草野心平など先に逝った友への追憶を描いた佐多稲子の著書。「長生きしたもんですね。私、ひとり生き残っているみたいなものだもの」。歳をとれば身近な友人は一人、ふたりといなくなる。どちらが先きか、あとかはわからない。友を失う寂しさはひとしおだ。

 子どもの頃の思い出は、こわい母でしかなかった。「でけん!」といわれたら何も言い返せず、すぐに諦めてしまった私。言うことを聞いてくれるようになったのは、お互い歳をとったということか。

 六度目のひつじ年の私。母が100歳になったら、なんと80歳! はてさて、どっちが「あとや先き」かなあ。


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