文字の前に、ことばがあった。
 文字のない時代、人々はどうやってことばを交わしていたのだろう。
 ことばのもつ音の響き、受けとめる表情や反応、間に漂う空気の流れと距離感覚、目の輝き、色や肌合い、においまでもキャッチして、ひとは、ことばを伝えていく。
 そこには過去の記憶や思い出、未来を予見する空想力、今このときの目の前に広がる情景が、回り燈籠のように浮かんでは消える。ことばの意味をきちんと聴く想像力が大事。そこからわかりあえる喜びと温かさが生まれる。でも、わかりあえない寂しさや冷たさが流れるときもある。
 全身を使って伝えることばが力を生み、ひととの交わりを成立させる。

 南アフリカのクワズールー・ナタール州、バンツー語系諸族に属するズールー人のことば、「遠いところ」とは「だれかが『おっかあ、おれは迷子になった』」と泣き叫ぶところ」を意味するという。ドイツの哲学者M・ブーバーは、これを引き、『孤独と愛-我と汝の関係』の中で「自己と他者の距離のたしかさや、自分と異なる人の位置感を正しく知ることから関係が始まる」と、ことばによる、ひととの交わりを説明している。

 新聞記者だった元夫から聞いた話。新聞社の同僚に一行も記事を書かない記者がいたという。ところが彼はとびきりの「座談の名手」。実に面白い。語ることばをそのまま記事にすればいいのに、いっこうに記事を書く気配もない。やがて彼は記者を辞めてバーのマスターにおさまった。その後も、ちょくちょく店にいっては彼の話を聞いたという。

 結婚して10年ほどたった頃。「あなたはどうして私と暮らそうと思ったの?」と尋ねてみた。「お前の発想は、あまりにもとびとびで支離滅裂だけど、なんか退屈しない。俺はもともと退屈な男だからな」と。

 子どもは10歳くらいまで、あの世とこの世を自由に行き来する。空想の世界に迷い込んだり、現実の世界に戻ってきたり、うろうろしながらだんだん大人になっていく。大きくなっても私は空想の世界からなかなか抜けきれずにいた。「そんなしょうもないこと、よう覚えてるな」と呆れられるほど、どうでもいい瑣末なことばが、その人の表情や情景とともに蘇ってくる。シェラザードが「千一夜物語」を語り続ける。王さまに殺されないために。よく考えれば性差別の権化のような話なんだけど、そんなふうに元夫に話し続けていたのかなと、今は大いに反省。

 20世紀はじめ無声映画が華やかな頃、ハンガリーの映画理論家ベーラ・バラージュは『視覚的人間』を著し、印刷術が一般化して以来、人間は全身的な自己表現の可能性を失い、言葉(活字)よって表現するようになったと嘆く。「視覚的人間」が失われ、「読解的人間」ばかりになったと。
 しかしやがて映画の発明によって「全人類は今日すでに何度も忘れ去られた表情や身振りによる言語を再び習得しようとしている。直接に形象となった魂の視覚的交信を、である。人間は再び眼に見えるものになるだろうと」と「視覚的人間」を回復させる可能性を予見していた。
 たとえば「画面のなかの人物に顔の上のドラマを語らせる。表情の動きは感情を表現する。まなざしは感情のニュアンスを描く。表情の動きを同時性と歴史性とを二つながらに視覚的連続の中でレガートのように読み取っていく」と。

 本を読む時もまた視覚的でありたい。小説の主人公を目に見えるように読む、耳に聞こえるように言葉を読みとる。書かれた文字から人物の身振りを感じとる。子どもに夜、本を読み聞かせると、寝っころがって、うっとりと聞き入っている。これこそ子どもにとっての大事な、大事な「ことば」の時間だ。

 もう一つ、大阪のおばちゃんは、なんであんなによくしゃべるんだろう。彼女たちは、ことばをいっぱいもっているから? 大阪・阿倍野の裏通りを抜け、昔、逃げ出す遊女を見張っていたという番小屋の石段を降りると、そこに飛田新地がある。ずらりと並ぶ置屋の玄関に、やり手ババアと女の人が座っている。そこを通り抜けてジャンジャン横町から通天閣あたりを歩いていると、知らないおばちゃんが近づいてきた。「飴ちゃん、あげよか。なめてみ」と飴を一つ、ポンとくれた。大阪のおばちゃんは今でもそうなのかなあ。

 ねこと話をする。ひとに媚びないねこは気が向かないと知らんぷり。機嫌がいいと、ちゃんとねこ語で話してくれる。ある日、馴染みの野良ねこが、ふらっと別れの挨拶にやってきた。そして数日後、ふっといなくなった。どこかに縄張りを移したのかしらん。


 このところ、あまりに忙しく、くたびれて38.6度の熱が出た。おまけに目眩も。これはいけないと娘と孫と丹波篠山「チルドレン・ミュージアム」(ちるみゅー)へ行く。里山「ごんた山」と廃校になった校舎を活用して昔ながらの懐かしいおもちゃや工夫をこらした世界の絵本がいっぱい。給食もある。広い校庭を何周も走り回って大満足。帰りは亀岡の湯の花温泉へ。ここしばらくの疲れを癒した。

 そしてちょっと早めのクリスマス。恒例の京フィルこどもコンサート「あわてんぼうのサンタクロース」も楽しんだ。


 いい「ことば」は、いい「交わり」を生む。「交わり」は「ふれあい」ではない。ぴったり「合一」することでもない。少し交われたかなと思えば、ちょっぴりうれしい。それには、ことばも距離感も大切に。なにより、ゆとりの時間をもとう。あくせくせずにゆっくりと「ことば」と「交わり」を紡いでいこう。