1910年生まれ(明治43年)、1956年没。かねてから病弱な上に癌性髄膜炎のため、46歳の若さで死去しました。

 父親・平太郎は陸軍中将で退役しました。母親は現在のお茶の水女子大学出身。教師として身を立てるのに充分な学歴がありましたが、病弱だったこともあり、29歳の時、子持ちで再婚の平太郎と結婚し家庭に入りました。隆子は三姉妹の真ん中、すぐ上の実兄は飯島正です。映画評論家であり、戦後早稲田大学文学部演劇科教授を務めました(飯島姓は叔父の家に養子に出たため)。母親は、夫の先妻の息子への配慮から、実子を母方の親戚筋へ養子に出したそうです。

 隆子の幼少時代は、東京は上目黒の、桃畑の広がる大邸宅というたいへん恵まれた家庭に育ちました。学校への服装や身につけているものと、長身ではっきりした顔立ちも相まって、良家の子女の中でも一段と目立つお嬢様だったようです。幼少より、日本の良家の子女のたしなみ~お琴などの習い事に親しんでいましたが、小学校が終わり、1922年(大正11年)日本女子大付属高校へ入学したお祝いに、母親がピアノをプレゼントしてくれました。隆子の喜びようは大変なもので、家にピアノが届いた歓喜の様子が記録に残っています。

 なお、日本へ西洋音楽が普及したのは、遠くはポルトガル人が来航した1500年代、また、ザビエルによりキリスト教が布教され、そこから教会音楽が広まりました。その後300年の鎖国時代は、邦楽への普及がなされましたが、明治時代、伊藤博文のヨーロッパ渡航、鹿鳴館文化などが急速に西洋音楽への目を開かせます。また、学校の音楽教育にも西洋音楽が進んで取り入れられる時代が来ました。

 しかしながら、ピアノを買ってくれた母親が、それから間もなく病気のために亡くなりました。まだ13歳の子どもに、大好きな母親の急死が暗い影を落とさないはずがありません。母親がピアノを贈ってくれた気持ちには、自分が果たせなかった思い~職業に生きる子ども~音楽で身を立てることへの暗黙の示唆があったのかもしれません。母親亡き後は、父親の姉が子どもたちの面倒を見てくれました。その上、信頼する友人•万福錦子は、父親が戯曲全集の出版を手がけていた人で、大正デモクラシーを享受するオープンな家で育ちました。共に東京の山の手の暮らし、隆子は兄とともに万福家を頻繁に尋ね、友人の母親に接することで、母親の影を慕い寂しさを紛らわしていた様子が窺えます。

「プーク」創立メンバーたちと

 学校教育へ明確な疑問を持っていた隆子は、成績もたいへん優秀でしたが、音楽大学はもとより大学へ進学しませんでした。ピアノも理論も個人授業を受け、作曲は橋本國彦、菅原明朗に師事しました。語学にも親しみ、アテネフランセへ通い、フランス語は原書で読むほどでした。文学はアドレ・ジイド、芥川龍之介、佐藤春夫の詩集を読みふけりました。アテネフランセは、隆子の新しい扉を開きました。俳優の中村伸郎、画家の久保守(久保栄の弟)と出会います。南葵音楽文庫に通い詰め、そこでは守田正義、山根銀次、深井史郎と知り合います。生涯にわたる友達の輪が広がった時期です。家では形だけの花嫁修行をしながら外に目を向け始めます。ここから、人形劇団「プーク」での活動に繋がります。

 隆子の興味は演劇作品で使用する音楽の作曲へ向かいました。演劇との出会い~音楽のみを学んだ人とは大きく違う、隆子の個性的な、そして社会的な音楽との関わり方でした。また、女性に求められるもの、家事全般や縫い物など、男性であれば求められない、その不条理さを若い時から感じている人でした。

 この友人関係の発展から、すでに家庭を持つ画家の三岸好太郎と出会い、3年間の恋愛関係に入りました。「クリティーク」誌に残っている隆子の自筆メモp19( 1930年)をご紹介します。
 『抜粋~男女の不平等への不満ただ現象的の反発となる。私も男と同じように恋愛を享受する権利がある。女の処女性とは女をブジョクするものだ。そんなものはドブへ捨てろ。一人の人間として「男」と同等にあれ。このまま意志を殺してHと結婚することの非を全く痛感し自分で破約する。ようやく一人で音楽の勉強をすることを許され、田中家に下宿する(大久保の家・解散す)。一方、Mとのたいはい的交渉。しかしピアノの勉強熱中的也。作曲は五里霧中になる。』

 また、三岸好太郎の妻、画家・三岸節子へのインタビューをまとめた文章に隆子に触れた記述が出てきます(1980年代の記録)。
『好太郎の告白「好きな人がいる」「隆子が自殺をすると言っているから1週間だけ彼女のところに行きたい」に仰天して、節子は隆子の家に出かけます。子どもが二人、好太郎の母や姉妹も同居している大所帯で、好太郎の収入が途絶えると一家が路頭に迷います。窮状をうったえる節子に対して、せせら笑うだけの隆子。節子に「あの当時の最も新しいタイプの女性」と言われている。』その後、三岸好太郎は家庭へ戻りますが、隆子の残した文章に別れに関する記述は一切見当たりません。

 その後、劇団「プーク」の仲間と正式な結婚もしますが、夫はどこまでも理想主義のお坊っちゃま、生活力に乏しく隆子ばかりに経済的負担がかかり、ピアノ教授・伴奏・作曲と稼ぐ手段は選びませんでしたが、結局3年もしないうちに破綻、過度な仕事に隆子は身体も壊します。

久保栄と

 そして、次は劇作家の久保栄との出会いがあります。久保栄は1900年(明治33年)札幌生まれ、東京帝国大学卒業後、築地小劇場、日本プロレタリア演劇同盟を経て、1934年に新協劇団を結成しました。一方隆子は、1935年「楽団創生」を結成します。ここでは5回のコンサートを開催し、自身を含めた邦人作品とともに、当時まだ知られていなかった海外の作曲家を積極的に取り上げていきます。ダヴィデンコ、ショスタコーヴィチ、ハンガリーのバルトーク、最後のコンサートは「ムソルグスキー百年祭」を開催しました。前述の劇団「プーク」での音楽的活動を下地に、久保栄の作品の劇音楽を担当します。その中のひとつ「火山灰地」は、とりわけ「二人の関係が友人から恋人へ、そして共同生活者として推移する時期に書かれた、記念碑的作品」(吉田隆子)。なお、久保栄にも妻子がいました。ふたりは生涯、同志的な関係を築き、結婚は選びませんでしたが、そこには、三岸好太郎との経験や、久保の子供たちへの配慮があったのかとされています。

 極端な国家主義が世界的に広がりを見せていたこの時代は、満州事変(1931)、ヒトラー政権の成立(1933)、日本では小林多喜二の拷問死(1933)、日本の国際連盟脱退(1933)と、ファシズムの勢いは第二次世界大戦終了まで続きました。演劇人ほか芸術に携わるものたちの国家を憂う左翼的な運動が、この当時活発に行われていました。久保栄も吉田隆子も、治安維持法の下、数度の逮捕・投獄を強いられました。そしてかねてから病弱だった隆子に、この投獄の経験はたいへんな身体の負担を強いました。

 一方で、隆子は音楽雑誌への投稿や評論も始めました、日本の作曲家・第一人者とされている山田耕筰すら舌鋒鋭く批判をします。作品「黒船」「あやめ」に対して「外国人目的に書かれた日本唯一のテクニシャンの作品」「一時代前の人」。ちなみに山田耕筰はすぐれた(?)軍歌も作曲しました。なお、隆子の評論には、女性名のほか、男性名のペンネーム「坂隆」が使われたのは、この当時の時代背景によるものだろう事は想像に難くありません。

 演劇の音楽のほかに、隆子には器楽曲のほか歌曲の作品もありました。1948年には自分の人生の集大成としてソプラノとオーケストラの作品「道」。4人の優れた邦人女性詩人の作品を起用しました。また、1949年には与謝野晶子の詩「君死にたもうことなかれ」に曲をつけ、晶子の偉業を偲んで開催された「与謝野晶子祭」において、大成功を収めました。このように、絶えず女性としての自分を意識し、また、厳然と横たわる男性優位社会における女性の立場へ、深い思いがあったことが窺われます。

 隆子の半生を読み込みながら、その舌鋒の鋭さや激しさや、男性優位社会への不条理感や、結婚に一切のこだわりなく妻子ある男性との恋愛関係に進む心持ち、この時代にこのような日本の女性がいらしたことに、筆者はただただ感嘆してしまいました。時代背景を考えれば、とりわけ良家の子女だった隆子が、どこから?なぜ?このような人間性を培ったのか・・・最後までそれは感嘆とともに疑問符として残りました。母親を早く失くしたこと、その母親の生前の姿が、隆子に少なからず影響をもたらしたのか?と、筆者のはなはだ心もとない想像であります。また、せっかく彼女が目指していたものを、筆者も含めた後世の邦人女性音楽家が、果たしてどこまで継承してきたか・・・内心忸怩たるものも感じるに至りました。

 入退院を繰り返していた隆子は、病魔に勝てずに1956年とうとう亡くなります。まだ46歳の若さでした。隆子の評論集『音楽の探求』補講版が1956年7月、隆子の生前には間に合わずとも、出版にこぎつけた際、生涯のパートナーだった久保栄の書いた「あとがき」は、隆子の無念に言及しており、読む者の胸を深く打ちます。なお、久保栄はうつ病が悪化し、隆子の死から2年後に縊死しています。「極めて平凡でありふれた愛情に、実は本当に尊いものがありますね」と見舞客に吐露したことばが残されています。

 隆子の作品は「火山灰地」から発展させた秀逸な「バイオリンソナタ」。弦楽トリオ「ソナチネ」。数々の歌曲、ピアノ曲も残されています。


 この度の演奏は、隆子のデビュー作品「カノーネ Canone」(1931) 。楽語表示は、Allegro moderato con amore ~愛を持ってアレグロモデラート。
 *カノーネは「カノン」のイタリア語表記。いわゆる「輪唱」と類似しますが、メロディを全く同じ音で異なる時期に追いかける場合と、異なる時期に同じメロディパターンを、異なる音を使いながら出てくる場合があります。愛を持ってとの指示通り、激しい愛も、はかなげな心持ちも短い曲の中に散りばめられ、豊かな才能を感じさせる作品でした。


 最後に、このエッセイにあたり参考にさせていただいた文献は以下のとおりです。

池田逸子・小宮多美江・小村公次編著『現代日本の作曲家2 吉田隆子』クリティーク80、音楽の世界社
辻浩美著『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』教育史料出版会
田中信尚著『抵抗のモダンガール 作曲家・吉田隆子』岩波書店