今月の作曲家はテレサ・カレーニョ(Teresa Carreño)。1853 年、南米ベネズエラはカラカスに生まれ、1917年、ニューヨークのマンハッタンで亡くなりました。
テレサの父親は、教育学や外交政策で名を馳せたマニュエル・カレーニョです(1812 ~1874)。後年、外務大臣や大蔵大臣を歴任した政治家でもありました。正しいマナーを学ぶための指南書も出版されています(Urbanity and Good Manners)。 父方の祖父はプロの音楽家でしたし、父親も音楽への造詣が深い人でした。
初めてのピアノレッスンは父親に習いました。早くから音楽的才能の片鱗を見せます。父親が編み出した500ほどの指の練習曲を難なくこなしたそうです。ほどなく、ドイツ系ベネズエラ人ピアニストにレッスンを受けるようになります。6歳頃には心に沸くまま作曲も始めました。しかしながら、ベネズエラの政変を機に、1862年、テレサ8歳で一家はニューヨークへ移住を決意しました。
すでにニューヨークでは8歳の少女の評判が知れ渡っており、彼女の到着を知らせる新聞記事が大きく取り上げられました。レッスンはニューヨーク在のルイス・モロー・ゴットシャルクに師事。ゴットシャルクは、ニューオーリンズ生まれのユニークな経歴を持つピアニストでした。多数の演奏旅行のために生徒はとらない主義でしたが、テレサの才能は格別、間隙を縫って教えました。テレサは習ったことをしっかり記憶し、レッスン後は日がな一日先生の注意通りに練習にいそしんでいたそうです。なお、ゴットシャルクはパリで音楽修行をした後、南米各国に数多くの演奏旅行をしたピアニストでした。
ニューヨーク到着後まもなく、マンハッタン東15丁目のアービングホール(Irving Hall )において華々しいデビューを飾りました。8歳の女の子の達者な演奏は大評判をよび、契約は次々更新され、1年間で5回のコンサートを開きました。どれも大喝采、ニューヨーク・タイムスの好意的な批評が残っています。プログラムには師であるゴットシャルクの作品他、タールベルク、自作小品も弾きました。その後は、更なる契約によりニューヨークのみならず全米各地を回りました。
1863年にはホワイトハウスへ招かれ、当時の大統領リンカーンの前で御前演奏をします。大統領が彼女の師ゴットシャルクの作品を好んでいることを知っていたテレサは、ゴットシャルクの曲も披露しました。そして、「このピアノは音が狂っている」と屈託なく言い放ち、あっさり演奏を止めてしまいました。リンカーン大統領はこの個性的な女の子を気に入り、テレサの肩に手を置き、「ぼくの好きな”夜のうぐいす”を弾いてくれないか?」。テレサは元々のメロディーに即興でバリエーションをつけ難なく弾きこなしました。大統領は大そう喜んだそうです。
1866年、13歳の時、一家は船旅でヨーロッパへ渡ります。途中のロンドンでは当時のロンドン・フィルハーモニックとの協演がありました。その後パリに定住します。この年に、テレサの母親はコレラで亡くなりましたが、テレサはスペインを演奏旅行中だったため、母親の死に目にも会えませんでした。母親の死は、その後の彼女にどんな影響をもたらしたのでしょうか?
またパリの暮らしは著名な作曲家との出会いをもたらしました。ドビュッシー、ロッシーニ、ラベル、グノーなど華麗な面々です。ピアノのレッスンはショパンの弟子ジョージ・マティァス、著名なピアニスト、アントン・ルービンシュタインに師事しました。また、作曲家にしてピアノの名手、リスト自らがレッスンに来ないかと誘ったけれども、彼女の方が辞退したという記述も見つかりました。
演奏活動も活発に行い、ロッシーニやリストの作品を好んで弾き、後年「ピアノ界のワルキューレ」と命名されるほどの活躍ぶりでした。この言葉の裏には、彼女の激しい演奏スタイルと共に、彼女の性格に依るところが大きかったようです。裾の長いドレスで颯爽と舞台に登場し、その姿は自信に溢れていて、たくましい腕でオクターブを華やかに弾く。これが多くの観客を魅了しました。ロンドンでは、現在BBCプロムスとして人気を馳せる音楽祭に何度も出演しました。
その後20年以上にわたり、テレサはピアニストとして華々しい活躍を、また同時にオペラ歌手としての成功も手に入れました。1912年には、テレサのキャリア50周年を祝うコンサートがベルリンで開かれました。往年の大ピアニスト、クラウディオ・アラウは、13歳の時分ベルリンでテレサの演奏を聴き、のちに当時を回想して、テレサを「goddess 女神」と述懐しています。
1860年代後半から1870年代前半にかけて、彼女は本格的な作曲も始めました。現存する40曲ほどのピアノ作品は、20歳の誕生日を迎える前のこの時期に書かれています。他に歌曲、合唱曲、室内楽曲も残しました。ニューヨーク時代の師の名前を冠した「ゴットシャルクのワルツ作品1」も含まれています。
彼女は生涯4回の結婚をしており、計6人の子供の母親でもありました。最初の結婚は、1873 年19歳、アメリカツアー中に出会ったバイオリニストが夫です。気むづかしく誠実さに欠ける人でした。2人の間には娘ができましたが、ツアーが不作に終わったことや、テレサの父親が亡くなったこと、2番目の子供の流産が最後まで尾を引き、また経済的困窮に陥り、結婚生活はうまく行きませんでした。原語・スペイン語で書かれた記録には、この娘はドイツ人友人へ養子に出されており、テレサはこの娘に終生会わない条件を受け入れ、その後も夫とコンサートツアーを続けたとあります。
次の結婚は1876年。歌手としてアメリカへツアーに出ていた時、夫は一緒にツアーをしていたイタリア人のオペラ歌手でした。3人の子供をもうけました。この結婚では、子供たちへ愛情を存分に注ぎ、テレサの家庭人としての輝きを発揮した時代でした。娘の1人はのちに母を継いでピアニストとして活躍しました。
この時期、祖国ベネズエラにオペラ歌手として凱旋公演も果たしました。当時のベネズエラ政府の招きでしたが、政府の対応の不実さや、当時のベネズエラ聴衆のオペラへの無理解さ、また、興行主のいい加減な対応により、初日は指揮者が現れず、テレサが指揮を担当することになったりと、散々な結果をもたらしました。その後、国情によりベネズエラに1年ほど滞在を強いられもしました。すでに人生の大半を海外で暮らしていたテレサにして、根本のところはベネズエラ人としての強烈なキャラクターを持ち、生活習慣、食生活など、ベネズエラ人として変えがたい趣向も相まり、加えて夫の不実な態度にも悩まされ、この結婚は1889年に終わりを告げました。
離婚後は子供連れで、ドイツでの演奏会に頻繁に出演しました。ベルリン交響楽団とピアノ協奏曲のコンサートが度々開かれ、ベートヴェン、グリーグ、チャイコフスキー等の協奏曲を頻繁に取り上げました。
1892年、3度目の結婚は有能なピアニストの夫でした。夫も結婚歴が何度もあるひとでした。2人の娘をもうけます。その後の1902年の結婚は、かつての夫だった人の兄弟。この方との時代に第一次世界大戦が勃発、ニューヨークへ戻りました。マンハッタンのアッパーウエストサイド(97丁目界隈)のアパートで、1917年、64歳で亡くなるまで一緒に暮らしました。
テレサの葬儀は、当時ニューヨーク在だったポーランド人ピアニスト・パデレフスキー(後年、ポーランド首相も歴任)その他の著名人が数多く参列し、彼女の棺を担ぎました。
彼女の遺言により、遺灰は1938年にベネズエラへ移され、1977年には、ベネズエラ政府が彼女の偉業をたたえ遺灰を国立神殿(Panteon National de Venezuela )へ安置しました。また、カレーニョ一族により、後年テレサの偉業をたたえた切手も発売されました。
現在のベネズエラ・カラカスには、彼女の名前を冠した《テレサ・カレーニョ 総合文化施設/Teatro Teresa Carreño》があり、各芸術分野の公演をはじめ、テレサ・カレーニョ・ユースオーケストラも活動しています。国家基金で運営されている音楽教育プログラムの下、オーケストラは世界中へ活発な演奏活動を行っており、過去には来日公演も行われました。
彼女の遺灰は後に国立神殿からこちらの総合文化施設へ移されました。テレサは現在に至るまで、自身の名前を冠した建物とともに眠っています。
この度の音源演奏は、「Une Revue a Prague Caprice de Concert op.27 Excerpt -コンサート用カプリース プラハ・旅のスケッチ 作品27より 抜粋」(著者訳)。パワフルながらも同時に優しさを兼ね備えた、作曲者のお人柄を感じさせる作品でした。