うっかりして投稿し忘れたブログ記事を。ちづこのブログ通しナンバーがずれていますがご容赦あれ。
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わたしの文章も大学の入試問題に採用されるようになった。そのなかに「うたの極北 俳人尾崎放哉」がある。(『上野千鶴子が文学を社会学する』朝日新聞出版、2000年/朝日文庫、2003年)
自由律俳句の両雄として並び称される放哉と山頭火だが、わたしは放哉ファンだが、山頭火好きではない。その理由を述べた文章がこれである。放哉と山頭火の作品は「対照的」であるとして、放哉の作品には突き放した、乾いたユーモアがあるが、山頭火の作品には感傷とナルシシズムがある、と論じた。
墓のうらに廻る 放哉
うしろすがたのしぐれていくか 山頭火
を比べてみればわかる。
そのなかで、こんなことを書いた。
「放哉にくらべれば、山頭火の甘さが気になるが、山頭火にも佳句はある」として次の句を引用した。
影もめだか
「だから何なんだ、という問いをぴしゃりと黙らせ、簡潔でゆるぎがなく、そして軽みまでそなえている。俳句の極限である」と評した。
それが実は山頭火の作品ではない、というご教示をいただいたのは、放哉研究者で自由律俳句の作者、小山貴子さんからである。
かげもめだか
の初出は層雲第九句集『一人一境』(荻原井泉水著、層雲社発行、1933年)、作者は沼尻陽三郎である。該当箇所のコピーまで送っていただいた。
本書に掲載された陽三郎の句は三句。他の二句は次のとおり。
落葉のうらおもて
ふゆくさの青くあるにはある
井泉水の評には、このうち「かげもめだか」が引かれており、「斯うした句は、それぞれに是で完成したるものと言ってよろしい」とある。他に「短律の北極」としてあげられているのが次の一句。
陽へ病む 裸木
とすれば、わたしが放哉を「うたの極北」と呼んだのもあながち見当外れではなかったことになる。
だが、引用句については表記をまちがったのみならず、かんじんの作者名をまちがった。山頭火というよりも、陽三郎に申し訳ない。さまざまな句集を読みあさったなかで、井泉水の『層雲』も読んでいたから、そのなかから引用句を見つけて作者名をまちがったのかもしれない。ご教示いただいた小山さんの、研究者としての細部にわたる精確さと執念にも感じいった。
気になるのは、この文章がいくつかの大学入試にすでに出ていること。受験生諸君のアタマにこの句が山頭火作としてすり込まれてしまったら...どうしよう、と心配になる。再版の可能性のない著書には訂正の機会もないので、このブログの場を借りて訂正を入れておきたい。
なお、「セーラー服のホームレス歌人」として知られる鳥居さんと、最近『婦人公論』のために対談した。彼女の凄絶な生い立ちや被虐待体験ばかりがとりあげられるなかで、何故短歌なのか、短歌に何ができ、何ができないのか、短歌と俳句はどこが違うのか、短詩型とは何なのか...について語りあった。たぶんこれまでの彼女のインタビューでは決して語られなかったことがらばかりだと思う。刊行を期待してほしい。
→とっくに刊行されています。『婦人公論』7月12日号、「絶望の底にいた私たちは短歌と俳句に救われた」
2016.09.01 Thu
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