おひとりさまの老後 (文春文庫)

著者:上野 千鶴子

文藝春秋( 2011-12-06 )

おひとりさまの最期

著者:上野千鶴子

朝日新聞出版( 2015-11-06 )

『おひとりさまの老後』『男おひとりさま道』『おひとりさまの最期』と「おひとりさま」シリーズ3部作が完結しました。
それを受けて、元立命館大学の同僚、今は中央大学所属の天田城介さんが、こんな書評論文を書いてくださいました。
そうか、そうだったのか、わたしがやったことはこういうことだったのか...と著者に得心させる、情理を尽くした文章です。
天田さんはご自身も介護問題を専門とする社会学者。『<老い衰えゆくこと>の社会学』(多賀出版)等の労作もある、尊敬する研究者のひとりです。こういう理解者を得て、著者冥利に尽きます。
掲載誌『トリッパー』は残念ながらあまり読まれない媒体。編集者と著者のご了解を得て、このブログに転載させていただきことができました。
以下、少々長いですが、たんなる書評というより、書評論文というべき堂々たる評論ですので、一挙掲載。

***************************
評論「分からないこと」「できないこと」への「わきまえ」     天田城介
上野千鶴子「おひとりさま」三部作を読む(「小説トリッパー」(2016年春季号掲載、朝日新聞出版)

 本書『おひとりさまの最期』(朝日新聞出版、2015年11月。以下『最期』と略す)は、『おひとりさまの老後』(法研、2007年↓文春文庫、2011。以下『老後』と略す)と『男おひとりさま道』(法研、2009年↓文春文庫、2012。以下『男道』と略す)に続く「おひとりさまシリーズ」三部作の“トリ”として書かれたものだ――ただ、これで上野千鶴子さん(以下敬称略)の人生が完結するわけではないので、おそらくこのシリーズはまだ続くように思う――。いずれにせよ、本書は終末期ケアと医療に関わる現場の実践を踏まえつつ、「在宅ひとり死は可能か?」という問いに答えるものだ。その結論は「イエス!」。
 では、なぜ『老後』から8年を経過した現在において『最期』は書かれたのか。第一に、「おひとりさま当事者」である上野をとりまく変化がある。これまで上野は「高齢者とは『今も生きつづけているひと』のことであり、『死にかけているひと』のことでもなければ、ましてや『死を待つひと』でもない」という思いから、「老後について書いても、終末について書くのは避けたい」と考えてきた。だから、「『死に方』について問われるたびに、わたしは『生き方』について論じているのであり、『死』や『死後』について語る準備がありません」と回答してきたという。ところが、「死と死に方とが、ようやくひとごとではなく、視野に入ってきた」。この当事者の経験こそが上野に『最期』を書かせたのだ。
 第二に、現代日本社会における高齢者の「最期」を取り巻く社会的変化である。超高齢化を背景に政府の医療・福祉制度改革によって在宅死が増加するのは確実であるため――「家にいたい」は高齢者の悲願であるから「動機が不純でも結果がよければOK」と解釈して――、現状の制度やサービスのもと、いかにして「在宅ひとり死」が可能になるかを上野は思考する。この社会学者としての立ち位置こそが『最期』を書かせたのだ。
 さてさて、このような背景から生まれた『最期』だが、この本の最大の功績は「孤独死」を「在宅ひとり死」と言い換えることで「おひとりさまの最期」にこれまでとは全く違った風景を与えたことだ。この卓抜したネーミングによって私たちの世界の見え方が変わる。
 言葉は現実の切り取り方を変える。たとえば、「セクシュアルハラスメント」という言葉によって、それまで働く女性たちに対して「仕方がないこと」「我慢して当然のこと」とされてきた現実が「正しくないこと」「声を上げてもよいこと」として切り出されるようになった。「独居高齢者」を「おひとりさま」に変換し、その上で「孤独死」を「在宅ひとり死」として描きなおす。この言葉を作り出したインパクトは決して小さくない。なぜか。
 第一に、「在宅ひとり死」という言葉を与えたことで、「孤独死」の「看取り問題」を「おひとりさま」の「資源調達問題」に変換した。「孤独死にならないよう看取りをどうするか」といったことのみに照準を合わせるのではなく、「おひとりさま」がそれまでの人生においていかに社会関係を形成/メンテナンスするか、利用可能な社会資源をいかに調達するかといったことを浮上させることに成功した。で、この問いに対して上野はこう結論づけるのだ。自らの人生において「社会関係資本」たる「家族に代わるサポートネットワーク」を形成/メンテナンスすると同時に、「(1)本人の強い意思があり、(2)利用可能な医療・看護・介護資源が地域にあり、そして(3)それを入手できるいくらかの自己負担能力があれば、たとえ家族の介護力がなくても、在宅ひとり死は可能」と。
 第二に、「在宅ひとり死」なる言葉によって「死に方問題」を「生き方問題」へと変換した。「終末期」と聞くと、私たちはすぐに「いかに死ぬか」を考えてしまう。ただ、私たちは「死ぬまで生きている」のであるからして、「いかに死ぬか」だけを部分的に切り出して考えても意味がない。問うべきは「いかに生きるか」だ。だから、『最期』は「終末期のおひとりさまは人工呼吸器や胃ろうなどの医療的介入を絶って、専門職の支援を得ながら家族や友人などに囲まれて穏やかに自然死を迎えることが幸せ」といった「自然死のススメ本」ではない。家族や専門家がウルウルするような感動するエピソードなども出てこない。宗教的/形而上学的なことなど一行も書かれておらず、ある意味では「超世俗的」な本である。その意味では「おひとりさま」が「最期」を迎えるための「身過ぎ世過ぎ」「渡世」についての指南書なのだ。「世俗主義者」たる社会学者・上野が書いた本である。
 第三に、「在宅ひとり死」はこれまでの「エンドポイント問題」のみを考えてきた「終末期医療」を「プロセス問題」に書き換えた。私たちは、ひとり暮らしの高齢者が息を引き取る瞬間だけ家族や親族が全員集合するものだという「看取りコンプレックス」に囚われてしまっている。だが、上野は、超高齢社会の「ゆっくり死」は予期できる死であるからして、「死に目に立ち会う」だけが看取ることではなく、「それまでのすべての時間が、看取りのプロセス」だと述べる。誰にも看取られずに家でひとりで死ぬと、「孤独死」と呼ばれるが、「ひとり暮らしでも、孤独でなければ、孤独死ではありません」。ならば、そのために利用可能な資源調達をしておくと同時に、長い時間をかけて人間関係を形成/メンテナンスしていくプロセスこそが何よりも大切になる。上野はいう。「どういう死に方をするかは、どういう生き方をしてきたか、ということにほかなりません」「人間関係は天から降ってくるわけではありませんから」と。
 このように『最期』は「在宅ひとり死」という言葉によって、「看取り問題」を「資源調達問題」に、「死に方問題」を「生き方問題」に、「エンドポイント問題」を「プロセス問題」へと見事に変換したのだ。私たちの「最期」の風景は確実に変わった。
 なるほど、『最期』の精髄は分かった。だが、読者はこう思うかもしれない。「なぜ『最期』が『おひとりさまシリーズ』のトリなのか? たんに終末期だからか?」と。だが、そうではない。『最期』はシリーズのトリとして書かれるべくして書かれた。シリーズ三部作は同じ立ち位置から記述されながらも、『最期』には『老後』や『男道』では十分示すことができなかった上野の「生へのこだわり」が記されているゆえにトリとして書かれたのだ。
 第一に、『老後』に対して東浩紀の批判に応答する際に上野が明確に述べたように――なお、ここでは東浩紀の批判とそれへの上野の応答は取り上げない。上野の応答として、上野千鶴子・北田暁大「世代間対立という罠」(『思想地図』vol.2、日本放送出版協会)を参照――、『老後』は「同世代の私と同じような状況にいるシングル女性のために書かれたわけで、いわば自助努力、自己救済の本」と述べるように、「おひとりさまシリーズ」は「団塊世代の中産階級の男女による老後の自己救済」の指南書・案内書である。
 むろん、『老後』と『男道』では宛先が異なる。一言でいえば、『老後』は【女たちよ、結婚しようがしまいが、最期はひとりになるのだから、ひとりで老後を暮らすノウハウを身につけ、「おひとりさまの老後」を楽しもう】というものだ。「おひとりさま」のベテラン/先輩たる私たちが「その蓄積されたノウハウを伝えよう。『ようこそ、シングルライフへ』」といった指南書になっている。他方の『男道』は【男たちよ、女に依存するのではなく、困ったときには困ったといえる「かわいげのある」男おひとりさまになることが肝心である。そのノウハウを伝えよう。『あなたにも道を切りひらいてもらいたい』】という案内書である。
 一瞥して分かるように、女に向かって書いた『老後』と男に向かって語る『男道』ではその基調音が随分と異なる。『老後』はシングルのベテラン/先輩たる私たちがそのノウハウを伝えてあげましょうといった感じで温かなメッセージを語るスタイルだ。それに対して、『男道』は【男は放っておくと迷惑千万なので、仕方がない、穏やかで幸せな男おひとりさまの老後の秘訣をざっと書いておく。あとは自分で考えよ】といった突き放した書き方になっている。このような男女への圧倒的かつ非対称な態度表明の違いは、上野がオヤジに冷たいということではなく、「団塊世代」の男女が置かれた状況に対する社会学的な診断がベースになっている。すなわち、「団塊世代の中産階級の女」に対しては、団塊世代の中産階級の女と男の暮らしを可能にしているシステム――特に「オヤジにやさしい」社会保障制度(『老後』)――の土俵のもとでは割を食っていながらも豊かな老後の資源を持つ女たちの戦略的かつ自己救済的な生き方を指南する。他方、「団塊世代の中産階級の男」に対しては、そうした優遇された土俵の上で胡坐(あぐら)をかくことなく「下り坂を降りるスキル」を説教するのだ。つまり、『老後』は同世代の女たちを、『男道』は同世代の男たちを宛先にした本なのだ。
 では、『最期』はどうであろうか。誰を宛先にしたかは書かれていないが、団塊世代の社会的かつ経済的な実情を踏まえて団塊世代の男女、とりわけ女性たちにその資源調達の方法を示していることからもやはり「団塊世代の中産階級の男女による老後の自己救済」の指南書・案内書である。また、『老後』同様、「中間層のマジョリティの経済階層で生きてきた庶民女性にも手が届く解」(上野千鶴子・北田暁大「世代間対立という罠」)を提示する。とはいえ、「おひとりさまシリーズ」は「団塊世代の中産階級の男女」を宛先に書かれた本だが、読み手は団塊世代のみならず、30代~50代なども含む幅広い世代であるが。
 第二に、かつて上野は『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ』(太田出版、2011年)で「本書は介護保険制度が成立しなければ書かれなかった」と記したが、「おひとりさまシリーズ」もまた介護保険制度が成立しなければ書かれなかったであろう。『ケアの社会学』では【今まで『不払い労働』であったケア労働が、選択縁である『女縁』を介して――例えば、ワーカーズ・コレクティブなどの協セクターを通じて――支払い労働に変わる仕組みになりつつあったが、2000年に始動した介護保険制度はまさにそれを制度的に可能とする『千載一遇のチャンス』となった。これによりケア労働がはじめて制度的に可能になった】という前提ゆえに、「介護保険制度の成立がなければ書かれなかった」のだ。「おひとりさまシリーズ」も介護保険制度によって地域に利用可能な医療・看護・介護資源を生み出したことではじめて「おひとりさま」の老後なり最期が可能になったという意味で、「介護保険時代の指南書・案内書」なのだ。実際、『ケアのカリスマたち――看取りを支えるプロフェッショナル』(亜紀書房、2015年)で「小笠原文(ぶん)雄(ゆう)先生によると、独居の看取りができるのも、介護保険のおかげ。介護保険がなければその可能性はなかった、とおっしゃいます。介護保険ができたとき、やった! これはわたしのような子どものないおひとりさまのためにできたんだ、と思ったのは正しかったようです」と言及しており、介護保険制度によってケア市場が爆発的に拡大したことではじめて「おひとりさま」の資源調達が可能になったことを指摘する。
 さらに加えれば、2000年代以降の一連の医療・福祉制度改革によって――医療・福祉コストの抑制を動機とした政府の在宅誘導など――まだまだ先進地域に限定的であるとはいえ、利用可能な各種資源が作り出されてきている時代だからこそ書くことが可能となった指南書・案内書なのだ。介護保険制度創設から15年を数え、一連の医療・福祉制度改革を経由する中で『最期』がトリとして書かれたのだ。
「在宅ひとり死の条件は、24時間対応の巡回訪問介護、(2)24時間対応の訪問看護、(3)24時間対応の訪問医療の多職種連携による3点セット、これさえあれば可能」であり、それらのサービスの一部は介護保険制度での利用限度額を超えた介護サービスとなるが、その自己負担する「あとちょっとのおカネ」があればケア労働市場から資源が調達可能となるという。こうした資源調達状況などはまさに介護保険制度によって爆発的にケア労働市場が拡大してきたことを背景とする。
 第三に、「おひとりさまシリーズ」はどれも資源調達について書かれた本だ。当たり前の話だが、資源調達は利用可能な資源がなければそもそも可能にならない。ただし、「おひとりさまシリーズ」はたんに介護保険時代の資源調達のノウハウ本ではない。「要は金だろ」と札束はたきゃ何とかなると思っているオヤジに対して購入可能な資源のみを羅列するのではない。むしろ、家族に代わるネットワークをしっかりと形成し、そのネットワークを日々メンテナンスするか、その積み重ねによってこそそれらがいざという時に信頼可能な支えになることを強調する。上野が「人持ち」を説く所以(ゆえん)である。「最期」における資源調達こそ、それまで他者との関係をいかに培(つちか)ってきたのかによって形作られるのだ。「最期」においてこそ、この点をより一層強調するという意味でもシリーズのトリとして書かれたのだ。
 第四に、「おひとりさまシリーズ」は自分で何でもかんでも資源調達して自助努力・自己救済のススメを記した「自助努力本・自己救済本」ではなく、むしろ「弱い私たちがちょっとの迷惑をかける程度で済む相互支援の仕組みを私が作っておく」という「弱さのもとでの自己救済本」である。上野はいう。「生きるとは迷惑をかけ合うこと。親子のあいだならとめどなく迷惑をかけてもかまわない、と共依存をする代わりに、ちょっとの迷惑を他人同士、じょうずにかけ合うしくみをつくりたいものです」。私たちがお互いに「ちょっとの迷惑」をかけ合う支え合いのネットワークを上手に立ち上げていくこと、困っているときにきちんと支えてくれる支え合いのネットワークを上手に形成/メンテナンスしておくことこそ「自助努力」「自己救済」であると強調する。この弱き私たちの支え合いのネットワークの自己救済という点は特に『最期』でより一層強調されている。その意味でもやはりシリーズのトリなのだ。
 第五に、「おひとりさまシリーズ」は介護保険制度にせよ、医療・福祉制度改革のもとでの在宅誘導にせよ「結果オーライ」という社会学的態度のもとで執筆されている。おそらく上野には、当事者にとっては「政策的動機」よりも「制度的効果」のほうがよほど大事であるという確信がある。介護保険創設/改革や医療・福祉制度改革の動機が何であれ、それによって資源が調達可能になるケア市場を創出/形成してきたことで「おひとりさま」の「老後」や「最期」が可能になったという社会的インパクトが大きいと判断するのだ。だからこそ、「介護保険は家族革命を起こした」と言う。その意味で、当事者目線から書かれたシリーズなのだ。ただし、『最期』は介護保険によってケア市場がそれなりに拡大したことで可能になってきた、医師や看護師たちなどによって先進的に生まれたケアサービスがフォーカスされている。その意味で『最期』は『老後』から8年を待たねばならなかったのだ。
 第六に、先述したとおり、「世俗主義者」たる社会学的態度のもとでまとめられている。「最期」についての本なのに、宗教的/形而上学的な言及がいっさい行われていない。徹頭徹尾「社会関係」や「資源調達」などをもとに、いかにこの世を生きるかという視点で書かれている。上野は言う。「生まれることと死ぬことは、自分の意思を超えています。それをもコントロールしたいと思うのは、神をも恐れぬ不遜。ですが、生きているあいだのことは、努力すれば変えられる。与えられた生の最後までを生きぬくこと、そしてわたしだけでなく、家族のあるひとも家族のないひとも含めて、多くのひとたちにとって、安心して過ごせる社会をつくること。宗教家ではなく社会学者であるわたしのなかにあるのは、あの世を救いにするのではなく、この世のことはこの世で解決したい、というあくまで実践的な意思なのです」。だから、「この世」の「生き方」、もっといえば「この超高齢化の時代において介護保険制度のもとで現在をどのように生きるか」という徹底して世俗主義者たる社会学者の視点から書かれている。この世俗主義者の立ち位置は『最期』においてこそより強く意識されたものになっている。シリーズではこのドライかつ冷徹なまなざしが貫かれている。  第七に、社会学者・上野の強固な「わきまえ」が貫かれている。全ての世代や人びとを宛先にするのではなく、あくまでもこのシリーズは介護保険時代の案内書・指南書と限定し、資源調達にこだわり、弱さのもとでの自己救済という守備範囲を設定し、政策的・制度的な本質論にも与(くみ)せず、死や死に方に関する宗教的/形而上学的視点は語らないことで、「当事者目線に立つ社会学者である私にはここまでが限界なのです」という矜持のもとで書かれている。この社会学的抑制がこのシリーズを、とりわけついつい美しいトピックを埋め込んだり、宗教的/形而上学的な話をしたりしがちな欲に駆られそうな『最期』を類書にはないものに仕上げている。
 この「おひとりさまシリーズ」のトリを飾った『最期』は、それまでのシリーズの立ち位置を保持しつつも、「死と死に方」について「分かること」と「分からないこと」にきちんと線引きをし、「できること」と「できないこと」とを弁別する「わきまえ」によって書かれた良書である。終末期にある当事者やその家族、そして専門家にとっては「迷いつつ生きる」だの、「死には立派な死も立派でない死もありません。死は死です」だのと書かれている部分には「もっとズバッと言ってくれよ」と思うかもしれないが、この歯切れの悪さ・中途半端さ・宙吊り加減こそが本書によって読者に届けられた各々が背負わなければならない生である。超高齢社会における介護保険制度のもと資源調達することができるようになったことで、在宅ひとり死は可能になった。そして私たちは家族に代わるネットワークを形成/メンテナンスしておくことで支え合いの仕組みを作ることもできる。だが、私たちは死を前に迷いながら生きるしかない。それに一義的な解はない。少なくとも私には分からない。ただ、そのような資源調達と社会資源が可能になった在宅ひとり死にはそんな自由があるのだ、と主張する。上野自身が「多くのひとびとの死に方を学んできて思うのは、どんな死に方もあり、という感慨です。終末期についての研究からわたし自身が得たもっとも大きな成果は、これでした」と最後に記したように、私たちには「死」それ自体は分からないという「発見」がある。  むろん、『最期』には批判的に検討すべき点は山積している。たとえばどうやっても「ちょっとのおカネ」を準備できず、さりとて生活保護受給者でもない「中の下」の高齢者にとって資源調達は困難であるし、介護保険制度が爆発的にケア市場を形成してきたのは間違いないが、その公的制度のもとで資源調達できない高齢者は無届施設のような制度の外部で資源調達せざるを得ない。その意味で介護保険制度をはじめとする社会保障システムに対する社会学的診断が不徹底であると批判することもできよう。それ以外の論点もいくつも浮上する。これについては別途報告するのでここでは本書の到達点を確認しておこう。
 繰り返すが、「おひとりさまシリーズ」のトリである『最期』は、それまでの『老後』『男道』の立ち位置を引き継ぎながらも、それらに比してよりいっそう「分からないこと」「できないこと」への「わきまえ」を踏まえて書き上げられているがゆえに、シリーズのトリを務めているのである。自らが順調に年を重ねていく「おひとりさま当事者」である上野千鶴子にしか書けない到達点に立った作品である。このことのインパクトは小さくない。