ケアの社会:個人を支える政治

著者:ファビエンヌ・ブルジェール

風間書房( 2016-03-31 )

『ケアの倫理』(原山哲/山下りえ子訳、文庫クセジュ、白水社、2014年)の著者、ファビエンヌ・ブルジェールの新刊『ケアの社会 個人を支える政治』(原山哲/山下りえ子/阿部又一郎訳、風間書房、2016年)が邦訳された。以下はその書評を月刊『ふらんす』に書いたものを、版元の許可を得て転載する。

「脆弱な個人」の自立を守るために
書評:ファビエンヌ・ブルジェール『ケアの社会 個人を支える政治』(原山哲/山下りえ子/阿部又一郎訳、風間書房、2016年)

 本書の原題は「個人の政治La Politique de l’individu」。「ケアの社会」はごく一部にしか出てこない。それを「ケアの社会」と題したのは訳者たちの選択である。「ケア」がマジックワードになっている昨今、その方が読者にアピールすると考えたのかもしれないが、原題に込めた意味は読み進むにつれて明らかになる。それは「個人」という理念を最大限守りながら、いかにしてネオリベ的な功利的個人主義から区別するかという問いと、著者が格闘しているからである。
『当事者主権』の共著者であるわたし自身も、この概念をネオリベ的な「自己決定」と短絡的に理解しようとする人々に抗してきた。この4月から施行された障害者差別解消法には、「差別」の禁止のみならず、「合理的な配慮」を提供する義務が書き込まれた。「配慮」を受けるからと言って、個人が自律をそこなわれる理由は何ひとつない。依存的な存在(ブルジェールはそれを「脆弱性」と呼ぶ)に適切な配慮を伴いながら、個人の自律を守るのが、「ケアの社会」の課題だからである。
 日本の保守政治家は、憲法の「個人」や「人権」すら西欧由来の個人主義によると蛇蝎のごとくいみきらうが、ブルジェールは「個人」を西欧に固有のものとは考えない。そして普遍的価値としての「個人」の理念を断固として守ろうとする。だがその個人は、もはやネオリベ的な主体ではなく、依存の網の目のもとにおかれた「ニーズの主体」なのだ。社会国家の役割とは、ネオリベ的な「レッセフェール」ではなく、脆弱な個人への配慮である。それを実現するのが、ジェンダー、人種、障害、性的指向等に対する「承認」を求める闘争である。彼女は私的所有にもとづく「第1の近代」、福祉国家の再分配にもとづく「第2の近代」と区別して、「支え」にもとづく自律的個人からなる「社会国家」を実現する「第3の近代」を構想する。本書は「個人」の再定義をめぐる社会、政治、能力等の概念の再配置を西欧哲学の系譜のなかに位置づける壮大な挑戦である。その意図のわりに、用語の説明不足や議論の粗さから読者はとりのこされる感がある。だが、少なくとも同時代の世界の各地で、依存的な個人の尊厳を守りつつ、同時に個人の自律をつらぬこうとする試みが行われていることに、読者は励まされるだろう。
(転載『ふらんす』7月号72p、白水社より)