夏の終わりは、いつも夏疲れでダウンする。今年も、そう。そんな時は喫茶店の片隅でコーヒーを飲みながら本を読むに限る。読むほどに、少しずつ体の中に気力が戻ってくるのがわかるから。
平均年齢70歳(?)の読書会。今月は私の当番。岡野八代著『戦争に抗する――ケアの倫理と平和の構想』(岩波書店、2015年)の第三章「修復的正義――「国民基金」が閉ざした未来」を読む。難解な文章を読み解くうちに、著者が問う「正義とは、和解とは、そして修復的正義とは何か」という文脈の奥に、ある道筋がスーッと見えてきたように思えた。
昨年の暮れも押し詰まった12月28日、突如、慰安婦問題の「日韓合意」がなされた。それに基づき、今年8月24日、日本政府は韓国の「和解・癒し財団」へ10億円現金拠出を決定。8月31日、送金手続を完了した。日本という国は、「慰安婦」被害を受けたハルモニたちの訴えに耳を傾けることなく、法的責任も公式謝罪もなく、かつて失敗した「女性のためのアジア平和国民基金」の轍をもう一度踏むつもりなのか。戦後一貫して変わらない「国家」の「不正義」に心から憤りを覚える。
「慰安婦」問題をめぐる70年代以降の古い本を書棚から取り出した。同じ対象を描いても、男性が書く性表現に何か違和感を覚え、女性が向き合う当事者とのいい距離感に共感しつつ、それぞれの本を読んでいく。なかでも、尹貞玉他著『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」――明日をともに創るために』(三一書房、1992年)は、ぜひ、おすすめの一冊。
1980、88、89年、韓国教会女性連合会・尹貞玉さんらが北海道、沖縄、タイ、パプア・ニューギニアへ挺身隊の足跡を訪ね、90年、「挺身隊取材記」を「ハンギョレ新聞」に掲載。同年、「韓国挺身隊問題対策協議会」(会長・尹貞玉)を結成。その来日を受け、日本でも連帯する女たちの運動が各地で広がっていった。91年、金学順さんが元慰安婦として名乗り出る。同じく名乗り出た仙台在住の宋神道さんを、92年、京都に迎えて私たちも集会をもった。
『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』の中の、金英姫さんの「忘れることは優しさか」の章は、とりわけ忘れられない。彼女は、「もしも」ということが歴史に可能ならば、と前置きし、「もしも、朝鮮が日本の植民地支配を受けていなければ朝鮮人従軍慰安婦という悲劇はなかったのではないか」「もしも、広島や長崎に強制連行されてこなければ被爆することはなかったのではないか」「もしも、むりやり日本人にさせられなければ、敗戦後一夜にして無権利状態で外国人として放り出されることはなかった・・・」と問いかける。そして「もしも、植民地支配に対する謝罪と清算がなされていたなら、この様な疑問は繰り返すこともないだろう」と。その通りだと思う。それに今回、この本を再読して金英姫さんが、私の本『関係を生きる女(わたし)――解放への他者論』(批評社、1988年)の一節を引用してくださっていたことを知って、もうびっくり。
岡野さんの本に戻る。彼女は「和解とは何か」を問い、「正義」に応えることなしに「和解」はありえないと答える。さらにユダヤ人としてナチスの迫害を受け、アメリカに亡命した哲学者・ハンナ・アーレントを引き、アーレントの「正義と理解」「理解と和解」「赦しと和解」の道筋を追っていく。アーレントは「どうすれば再びこの世界を愛することができるようになるか」を一心に思索し続け、加害行為を促してきた全体主義を正しく「理解」することが、その世界との「和解」に繋がってゆくと、20数年をかけ、ようやくたどり着いたという。
岡野さんは「正義」の前に「不正義」の話をしなければならないという。沈黙を強いられてきた人々がなぜ「正義論」から排除されてきたのか。「不正義」を被っている人々になぜ正義を届けようとしてこなかったのか。修復的正義と和解こそが求めなければならないと極めて重要なポイントを突く。
1996年、カナダ司法委員会が出した新しい「正義」へのアプローチがすばらしい。「犠牲者と加害者の関係、軋轢の性格、犠牲者が被った網羅的な危害の内容、その危害を回避するためにわたしたちにできること/できたことを完全に理解すること、さらにはそうした行為が未来に再び起こらないために、何が加害者の行為を促したのか、そうした行為を防ぐためには何がなされるべきなのかを理解すること」。この言葉は、まさに7月26日に起こった相模原の津久井やまゆり園の事件を思い起こさせる。「加害行為を促した」ものは何か。その行為を防ぐために「できることは何か」を理解すること。すなわち試されているのは私たちであって、問われるべきは彼ら彼女ら、慰安婦とされた人たちでは断じてない。
2006年、修復的正義に関して、国連総会で「被害者の尊厳回復」とそれに必要な「補償」が決議された。「被害者に真実を伝え、被害者を記憶するための施設、歴史教育、人権教育」を保障することが被害者の修復への道として例示される。その先に被害者との「和解」の道が拓かれるのだと。これは1996年の国連人権委員会「クマラスワミ報告」、98年のマクドゥーガル報告で慰安婦制度を「性奴隷制度」、慰安所を「レイプセンター」と位置づけ、責任者の処罰を求めたことに基づくもの。しかし日本政府はなお、「道義的責任はあるが、法的責任はない」との立場を採り続けている。
読書会で読んだ、もう一冊の本、若桑みどり著『戦争とジェンダー――戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』(大月書店、2005年)の第5章「戦場における強制売春――従軍慰安婦」で若桑さんは、こう断言する。慰安婦問題とは、国家権力+植民地支配+家父長制度下の性差別+人種差別だと。まさにその通りだ。
従軍慰安婦問題は「戦争中の、たまたまある時期、犯してしまったひとつの過ち」などでは決してない。過去の出来事を私たち自身が「理解」し、加害者が「謝罪」に至ることで、被害者たちは「社会に帰属しているという意識、自らの自由を回復することができる」と、岡野さんは結ぶ。
「忘れることが優しさ」ではない。問われているのは「不正義」な社会に加担してしまっている私たちの方なのだ。そう思って本を読むうちに、そうよ、ダウンなんかしてられないわと、だんだん元気が戻ってくるのを感じた。