まだそんなことを言っているんですか、と新聞を読みながらあきれています。10月29日の朝日新聞の「悩みのるつぼ」で79歳の男性が相談しています。若いころ関係した多くの女性が忘れられなくて、電話しても全員から即断られる、欲望と未練を断ち切ってもっと男らしく楽しい人生を送りたいが、どうしたらいいのか、というものです。ばかばかしい相談で、いちいちつきあってはいられないと思いますが、「男らしく」にひっかかりました。

 「男らしく楽しい人生」ってなんなんですか。男はいっぱいいます。日本だけでも6000万人はいます。みんなそれぞれの人生です。楽しいと感じることも違います。酒を飲むことが楽しい人も、山登りが楽しい人も、ゲームが楽しい人も、それぞれひとりひとりが違う人生を生きています。それを「男らしく楽しい人生」などと、決めつけてどうしようというのですか。「Aさんは男らしい人生を生きている」「Bさんは男らしくない」などと決めつけて何かいいことがありますか。

 人を表すことばにつけて使う「~~らしい」はくせものです。「女らしい・女らしさ」というとばは女性を長年苦しめてきました。「人前ではっきり意見を言うのは女らしくない」「もっと女らしくしとやかにしなさい」と言われ続けてきました。「あなたは女らしくない」と言われると、全人格を否定するレッテルをはられたようで挽回するのは大変でした。そう言われないように、女性たちは慎んできました。遠慮してきました。しかし、その実態はなんだったのでしょう。力のある側にとって、自分に都合の悪いことを言う女は「女らしくない」のでしたし、従順で言いなりになる女は「女らしかった」のです。抵抗したり、正論を吐いて向かってくる側を抑えることばが「女らしくない」でした。

 とはいえ、①「秋らしい季節」、②「どうも隣は留守らしい」というような「らしい」は問題ありません。①は、本格的に秋に近づいて、標準となる「秋」に似てきたということです。そのものそっくりという意味です。②は、はっきり確かめたわけではないが、人のいる気配がしないし、新聞もたまっている、だから留守だろうと推測する言い方です。

 「男らしい」「女らしい」は①の「らしい」です。標準的なモデルとなる男と女があって、それに似ている、そっくりだということです。では男と女のモデルってありますか。これこそ男だ、これこそ女だと言えるモデルがありますか。個々にそう思うモデルはあるとしても、万人が一致した「この人!」という純正なモデルはないでしょう。

 今までは、モデルをわざと作り、それに似させようとしてきました。それらしい標準的なモデルを設定して、それに合う規格品を作ればコントロールするのが楽です。たとえば、「男らしい、強く勇ましい人」は戦争に行かせやすいです。「女らしい、やさしくおとなしい人」は戦争に反対しません。お上に反対することなど絶対にしません。

 力のある側は、自分に都合のいい人を作るために「らしい」で人をひとつの枠の中に閉じ込め抑えつけてきました。そういう「らしさ」が大活躍でした。「子どもらしくない」もそうです。大人の言いなりにならない子は「子どもらしくない」のです。

 「男・女・子供・会社員・先生・母親・父親……」こうした大勢の人を表すことばに「らしい」をつけると、そのモデルの人物像が枠になってその中の人を縛りつけます。本物の秋に近くて「秋らしい」ならいいし、Aさん個人が本物のAさんに近い「Aさんらしい」はいいけれど、「男らしい」「女らしい」「子どもらしい」はやめましょう。

 わたしがわたしらしく、Aさんが、Aさんらしく100%Aさんとして楽しい人生を送ればそれでいい、「男らしく楽しい人生」なんて実態がない虚構を求めるのはもうやめましょう。