2016年11月、作家の雨宮まみさんがお亡くなりになった。
東京をはじめとした都心在住の30歳以上の独身女性というのは、平成の日本で多数観測され初めた珍種の生物で、この先の生態についてまだ誰も知らない。
家族というセーフティネットを持たず、資格や永久雇用もなく、キャッシュしかもたない人種。
この生物は、日本人の男で、結婚していて、健康で働けて、定職にを持ち、すでに資産形成をしている親がいることが当たり前という土壌に生息しているため、身をひそめるように分布している。
LGBTという種族はマイノリティとして特別座席を頂きはじめてる昨今だが、独身のハイミスという人種やシングルマザーという人種は、現在のところ福祉分配すべきでない種としてみなされているようだ。
日本がこの種を駆逐すべきと考える風土となるのか、弱小生物が生存可能な風土となるのか、まだ誰もその行先を知らない。
雨宮まみさんは、その答えを一緒に探してくれる同輩だと思っていた。
「こじらせ女子」の言葉の元となった著書「女子をこじらせて」は、男性目線を内面化した女性が、血まみれでその呪縛と格闘し続ける様を克明に記した壮絶なドキュメンタリーである。
彼女は日本女性の生きづらさを、美しいもの、ファッションという武器で彩った。
彼女のtwitterのタイムラインはいつも素敵なもので溢れていた。不定期に開かれる展示会で限られた数だけつくられる繊細なアクセサリー、下町の古ビルの一角で開かれる蚤の市、プロレスの場外乱闘の時走って逃げられる軽快で洒脱なワークブーツ。
「女の子よ、銃をとれ」をはじめとした著書やツイッターやinstagramを通して、彼女は、他者から規定される美でなく自分が欲する美を選び取れ、と自分を、私たちを、鼓舞してきた。
他者に欲望され=消費されることを欲する者は、一方で極端な消費行動に走ることがある。
中村うさぎさんもそうだったが,雨宮さんも自著の中で高価な洋服やブランドバックを購入し、購入した袋のまま部屋の隅に置き去りにすることがあると語っている。
代償としての消費行動は危ういものを孕んでいるのは事実だが、雨宮さんは、華やかで美しいもので覆ったその下にある女達の傷や孤独こそを美しいと感じ、愛おしむことができる人だった。
「東京を生きる」の中に、パーティーを先に退出し、一人タクシーに身を沈める森瑤子への空想が出てくる。
「悲しみや不幸、憂鬱さですら一種の美しさに変える、そんな魔法が使える女。」と彼女は年老いた女に憧憬の眼差しを向ける。
連載「穴の底でお待ちしています」(単行本:まじめに生きるって損ですか)の中で、彼女は私たちに、その魔法を使って見せた。言葉という武器で。
親世代から規定された社会役割と他者視線の内面化で自縄自縛に陥る女性たちの切実な吐露に対して、雨宮さんは言葉という真剣を選んで立ちあった。
彼女は言葉で、泥の中で戦い生き抜く、鍛える女の美しさを見せてくれた。彼女は女たちの切実な吐露を、共に歩む同志として丁寧にほどき、何か違うものへ変換し、抱きしめてくれた。
それは、女たちへの愛と私達の中にある本来の生命力、治癒力への希望、そして何より、戦う者への賞賛に溢れていた。
だから、彼女の戦いの先にあるものを、女達の行く手にあるものを、共に走り、共に見届けたかった。
子供の頃、天然記念物を保護する意義がわからなかった。
滅びゆかんとする種は、滅すべき腫。その生物に労力をかけることの意義がわからなかった。
今なら、わかる。その特定の種を「守る」ことが大事なのではなく、少ない種ですら生きられる、多様性を許容できる、厚みのある文化を維持することが大切なのだと。
一つの種が滅びたということは、それだけの弾力を私たちの世界が失っていることの警告なのだ。
雨宮さんがあるとき呟いていた。弱くても、女でも、年をとっても、お金がなくても、健康を害しても、生きられる世の中であってほしいと。
それはフェミニストが理想とする社会の在り方そのものだ。
日本という風土が、弱小生物が生存可能な弾力ある社会であってほしい。その日まで絶望しない工夫を重ねて生き延びていきたい。
億万の絶望と希望と祈りを、雨宮まみさんに捧げる。(karuta)
2017.01.09 Mon
カテゴリー:わたしのイチオシ