監督も知らない、役者も知らない。
ひと足先に試写会で、観て感じたまんまをいけしゃぁしゃぁと映画評。
筆/さそ りさ
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ただひとりの大工職人、ダニエルの日常に起きた出来事。
それは、わたしたちの社会でもありうる不条理極まりない出来事であり、共感といささかの怒りを共有する作品である。
ダニエル、59歳。突然、心臓発作を起こして医者に仕事を止めるようにいわれる。
彼は、国から雇用支援手当を受けており、これを継続しなければ収入ゼロになってしまう。
継続のためには、求職活動をしなければならない。医者に働いてはならないと診断されているのに、である。
収入がなくなれば生きてはいけない。だから求職手当受給の申告をしなければならないが、申込みはオンラインでのみ。
「わたしは鉛筆派だから、そんなことはできない」と怒りを込めて訴えるが、だったら継続はできない諦めろという次第。
そうした場面でダニエルは、
生活給付金の受付け時間に遅れたばっかりに減額処分となることに抗議している女性を目にする。
彼女は、ロンドンから越して来たばかりで、道に迷い遅れたと訴えるものの担当者は聞く耳を持たない。
そうした彼女を周囲は見て見ぬ振り。見かねたダニエルが加勢するが、担当のガードマンにふたり共追い出されてしまう。
いずれの件も、国の担当者は、「それが制度のルールだ。嫌なら受給を諦めろ」の一点張り。
あきらかに制度に矛盾があるにもかかわらず、
加えて、不服を申し立てる者を排除するためのガードマンを配置し人件費を税金から支払っている。
国家の弱い者いじめ以外に何ものでもない状況が続く。
制度の矛盾を繕うために、さらなる制度をもうけ、不条理な制度を守るためだけに頑な役人たち。
この作品には、無駄な会話はない。余計なおしゃべりは削ぎ落としてある。言葉のひと言ひと言に重みがある。
ダニエルが出合った女性は、シングルマザーでふたりの子どもがいるが、上の女の子(小学生高学年)が
手当の受給を諦めて引きこもった彼に語りかける言葉と、ラストのそれは繊細に磨かれており、作品の意図が的確に伝わってくる。
そして、タイトルの“わたしは、----”と強調している意味がわかる。
どんなに弱く苦しい思いをしても、わたしは自らの尊厳と誇りを失ってはいない“わたし”であるということだ。
ゆえに、組織にへつらい、ゆがんだ制度におもねる人間との対比が浮き彫りになる。
世の中がこわれないうちに、いまこそ問いたいテーマの作品。観てほしい人ほど、観ないであろう作品ではないか。
2017.1.13試写
2017年3月18日(土)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
c Sixteen Tyne Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du
Fleuve,British Broadcasting Corporation, France 2 Cinema and The British
Film Institute 2016