上野さんの公開質問状に対する回答を読みました。新聞記事については、編集のこともあるし(こちらが、一生懸命話しても、記者はだいたい自分が書きたいことしか切り取らず、話者に記事をチェックさせない場合もあるので)、上野さんの真意もよく理解できなかったので、意見を表明したいとは思っていなかったのですが、上野さん自身の返答を受けて、自分との違いをはっきりと認識しました。
わたしは、シティズンシップ(国籍・市民権・市民であること・市民としての資格・市民らしいふるまい、などの意味)の研究もしてきましたーー上野さんが、歴史的背景が異なるとして言及しなかった北米ですがーー。研究上、やはり、富裕国に向かう労働移民の問題は、ずっと大きな問いでした。そのなかで、上野さんが主張されている、あたかも移民問題が、国策=主権国家が受け入れる・受け入れないを一方的に判断できる「裁量圏内」にあるという考え方は、すでに80年代以降、ずっと思想的には批判されてきた「主権」論だと理解しています。そもそも、この上野さんの「移民」の捉え方は、あまりに国家中心的すぎる。移民を、「受け入れ国家」が選択できる問題としてのみ、考えているからです
移動してくる人たちにとって、移民問題は「選択」の問題と言い切ってしまうことは、差別を受ける、不利益をこうむることが分かっていながらーーわたしの知る限り、移民してくる人たちは、二世・三世のために、そのことを覚悟する人たちも少なくないーー他国に入国したのだから、その差別を甘んじて受けろ、という議論に短絡します。また、日本だけがーー上野さんの予想が正しく、日本国民も日本の在留外国人も、そしてニューカマーたちも、多くの困難に見舞われようともーー、国際的な財の配分の不平等ゆえに押し出されてくる人たちを、排除できるいかなる道徳的な正当性もない。「平等に貧しくなろう」という掛け声は、再配分機能をたたきなおす、という意味において賛同できるとしても、そもそも、やはり「移民」について、上野さんの目線はあまりに、国家中心主義的すぎる。公開質問状への回答は、上野さんの国家中心主義がとても露わで、衝撃を受けました。移動してくる人たち、そしてその周りで生きる人たちへの配慮がいっさいないから。
そもそも、「国内の」財の再配分を(ロールズ流に)言う前に、国籍の配分がいかんともしがたく、恣意的に決定されてしまっている現在の国際社会のなかで、国籍における配分の不平等は、ロールズ以降、ずっと問われてきました(シティズンシップ論のなかでは)。そして、シティズンシップ研究なんて知らない人たちだって、肌身で感じてきたはずです、そんなことは(わたしは、90年代前半に、韓国からの留学生の友人とアメリカ旅行するさいに、彼女にだけ当時はビザが必要で、しかも彼女は、80年代韓国で反政府活動をしていて、良心犯として逮捕されているので、もしかしたらビザがでないかもしれないと、本当に心配したさいに、強烈に、国籍の恣意性を思い知った)、日常知レヴェルで身に沁みている人はたくさん日本にもいるはず=でも、上野さんは違うのだろうか?、とこれもショックです。
国籍における配分を思想的に問うたトマス・ポッゲはすでに翻訳もされていて、国境の外にいる人たちへに対する富裕国の責任という問題は議論されて久しい(でも、かれのデビュー作で、そのことを中心的に問うた、Realizing Rawls はまだ、残念ながら日本では出版されていません)。
そして最も鋭い問いを発したのは、Ayelet Shashar, The Birthright Lottery: Citizenship and Global Inequality (Cambridge: Harvard University Press, 2009)です。 世界中の自由民主主義国家において、生まれの特権は否定され、少なくとも業績主義の原理が貫かれているなかで、なぜ、国籍だけが出生地主義であろうと、血統主義であろうと、「生まれ」によって決定されるのか?を、遺産相続法とのアナロジーで考えていく、という本当にすばらしい本。単純に、出生地主義のほうがまだ差別が少ないと思い込んでいた(いまでも、ある程度、そのように考えている)わたしに、大変な衝撃を与えてくれた本です。まずほとんどの人は、相続税の存在自体に反対はしないだろう。親が大金持ちで、どうしてその子孫もその恩恵をうけるのか?ーー実際は、すでに再配分機能が低下するなかで、そのような事態には陥っていますがーーという疑問は、わたしたちの日常知レヴェルで、それなりの正当性をもっています(相続税の根拠について、この本で始めて勉強しました。また、青山学院大学学長の、三木義一先生から税法に関する論文を紹介してもいただきました)。それと同様に、なぜ、親や生まれた土地によって国籍が偶然、まるでくじ引きのように継承されるのか、それはあまりに、道徳的にみて恣意的だ、と主張する議論です。
論文のために一度は書いてみたものの、結局削除して発表しなかったシャシャールについての文章が手元に残っていたので、最後に貼り付けておきます。
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国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
以上の憲法第11条が宣言するように、〈わたしたち〉国民は、何人からも侵されない基本的人権を十全に尊重される。だが、国家によって保障されるのが「人権」であるならば、それは個人が社会において生きるうえで、尊重される必要がある権利であるはずだ。〈わたしたち〉内部では、等しく人権が保障される。だが現在、自由権や社会権のよりよい保障を求めて、多くの人が国境を越えて移動する。また、外国に長期滞在するなかで、より住みやすい環境を求めて、政治的な発言権、そして決定権が必要になることもあろう。さらには、現在では国際法上の人権として認められてはいないものの 、国籍国を離れ、よりよいと考える国家への入国を望む人たちがいる。
現在、日本もその一員である国民国家システムにおいて、国家だけが人権保障の有効な機関である。たとえば、アイレット・シャシャールは、国籍法において血統主義をとろうが出生地主義をとろうが、シティズンシップという諸権利をもつ権利が世界的に不平等に配分されていることにかわりがないとして、不平等な国際システムを維持している、入国に厳しい条件を課す富裕国家には、この不平等を是正する義務があると説く[Shachar 2009]。彼女によれば、諸権利をもつ権利という人間にとって最も重要な権利は、〈生まれ〉というあたかもくじ引きのような運に左右されてはならないからだ。
なお本文は、2月17日に個人のFBに掲載した記事を、加筆修正したものです。
The Birthright Lottery: Citizenship and Global Inequality
著者:Ayelet Shachar
Harvard University Press( 2009-08-30 )