これがプロのクオリティか、と感激した経験がある。そもそも「育児のプロ」の存在を理解していなかったことに気がついた。その経験から私は、大切なのは「育児クオリティ」が高いことだと考えている。これは「親クオリティ」のことではない。子どもが育つ上で影響を受けるもの全体の質のことで、これが高いことが大事だというために、ひねり出した言葉である。親は大切ではあるが一要素だ。親への叱咤激励(あるいは指導、批判、攻撃等)でもって育児クオリティを上げようとするのは、プロの存在を知った今では、素人の個人的努力と気合いだけに頼る持続不可能な仕組みに見える。

私が知っているプロのサービスはこうだ。

まず、すべてのベースとして毎日を規則正しく繰り返す。その中で丁寧に子どもを見守り、教え続ける継続力と忍耐力がまず違う。

プロの目は鋭く、子どもが今は何ができて何ができないかという発達段階を見極め、次のステップに進めそうなサインが出ていれば見逃さず、適切な補助をする。また、子どもが他の子を叩くなどの「困った行動」をするときに、なぜそうしたのかをちゃんと見ている。理解しているので、それに応じた叱り方で子どもを納得させる。

プロは豊富な引き出しを持ち、それぞれの子どもの心に響く言葉ややり方を見つけることができる。どんな時も「まだ分からないから」と黙るのではなく、「続けていればそのうち分かるようになるから」と丁寧に語りかける。ちょっとしたきっかけや言葉で、子どもの遊びをふくらませて夢中にさせてしまう。

こうした積み重ねで、「どうせそんなことはまだできないだろう」と親が思うようなことを、できるようにしてしまう。子どもの潜在能力を引き出す、という感覚。それがプロの育児である。

こうしたクオリティで素人の親を圧倒し続け、もはや親なんて必要ないのではないかと思うと「あくまで“おうちじゃないところ”という緊張感の中でできることですから」というフォローが入る。

こんなプロのクオリティに接する機会がすべての子どもと親にあったら、きっと育児クオリティは上がるだろうに。子どもにはもちろん、親にとっても得るものは大きい。プロのやり方や考え方を肌で学べ、自分の手元を離れる間に余裕が生まれ、困った時に相談できる安心感もある。相乗効果が生まれる。  

ここでいうプロとは、「カリスマベビーシッター」などではない。私が出会った保育園で働く保育士の方々である。

「育児は親がするもの、その肩代わりを(仕方なく)保育園やシッターがするもの」ではなく、「育児クオリティが高いかどうかが大事、そのためにプロのサービスがもっと普及すればいい」という考えに変わっていけばいい。そのためにもプロのすごさがもっと語られてもいい。

しかし、「保育士のすごさ、保育園のよさ」を語る場は少ない。「親の肩代わり」として用意すると法律で定められているはずの保育園は、地域によるとはいえ何十年も不足し続けており、クオリティ云々をいえば、場合によっては自慢もしくは批判になってしまう。同じ年頃の子どもを持つ親同士でも保育園派と幼稚園派に分断されてしまっている。世代を問わず存在するアンチ保育園派の人に当たってしまったら面倒だ。そんなことを思うほど、ごく内輪だけで「保育園いいよね、先生方は本当にすごいよね」などと言い合うだけで済ませてしまう。

内輪サークルだけで話すだけでは、現状の保育園問題も解決しないし、親にとっては子育てしやすく、子どもにとっても良好な環境を作るにはどうすればよいのかというもっと根本的な話にたどり着くこともできないのではないか。

育児にはプロがいて、その力を借りて育児クオリティを上げることを考える。それを当たり前の選択肢として考えられるようにならないだろうか。

■ 小澤さち子 ■