ITはダメでもお手伝いを
『平塚らいてうの会ニュース』をWANのミニコミ図書館に収録していただいたとき、手間暇かかる作業をボランティアで取り組むみなさんのご苦労に申し訳ない思いでお手伝いに加わりました。とはいえIT技術はまったくちんぷんかんぷん、会議終了後上野千鶴子さんの采配で囲む豆腐鍋や焼肉パーティのほうに気をとられていましたが、入手困難で「幻」といわれた『高群逸枝雑誌』がアップされたころから「これはすごい」と実感、「地域女性史のミニコミ資料の保存・公開を」という提案に我が意を得たしだいです。この分野で草分けの伊藤康子さんや折井美耶子さんたちにもお伺いを立てながら、地域女性史のミニコミ資料がどんなかたちで残っているか、それがオープンにされることの意義は何かを考えています。
らいてうの家所在地「旧長村」に残る女性たちの声
最近、思いがけない経験をしました。アメリカのメリーランド大学にあるプランゲ文庫は、1945年から49年までアメリカ占領軍が検閲のために収集した日本国内の膨大な出版物が保存されているので有名ですが、その資料を使った吉見義明さんの『焼け跡からのデモクラシー』(上下 岩波書店 2014)を読んでいたら、1947年に長野県長村(おさむら)の青年団が編集した『四阿(あずまや)』という村の新聞に女子青年団員の書いた文章が引用されていたのです。長村というのは、らいてうの家が建つ地域の旧村名(現上田市)です。地方の農村のミニコミ紙まで検閲の対象だったという驚きとともに、若い女性の戦争批判発言に惹かれました。
わたしは地元の方がたを訪ねて、『四阿』がプランゲ文庫に収録されていない1949年以降の分もコピーで残されているのを発見、1952年に別の女子青年団員が、当時らいてうが編集した女性の戦争体験集『われら母なれば』や『きけ わだつみのこえ』を読んで戦争反対を訴えている文章を見つけました。しかも地元らいてうの会員さんが「私は彼女と一緒に働いていました」と言い、ご高齢の今も地元新聞に投書をされていることを教えてくれたのです。さっそくお訪ねして戦後職場の組合活動のことや、弁論大会で入賞した思い出などを伺いました。
歴史に向き合う女性の実像がみえる
これまでの歴史の中で、女たちの声はいつも小さく、時代の嵐の中でかき消されてきたと言われます。しかしその「小さな声」がミニコミ紙誌に記録され、時を経て掘り起こされることによって、歴史に向き合う女性の生きいきした実像がみえてくるのではないか。プランゲ文庫になぞらえるつもりはありませんが、ミニコミ図書館の意義の一つはそこにあると思い、資料の収録と検索の拡大に少しでも協力できれば、と思っています。