
若き日、作曲にいそしんでいた頃のアルマ
今回は、オーストリアの女性作曲家、アルマ・マーラー・ヴェルフェル(Alma Mahler Welfel)をお送りします。
アルマは、1879年、ウィーンに生まれ、1964年、アメリカ、ニューヨークのマンハッタンで亡くなりました。生まれ育ったシンドラー家は、風景画家の父ヤコブと、母アンナは声楽家でした。父親はアルマに幼い頃からイプセンやゲーテを語って聞かせ、また、絵を描く傍にアルマを置き、娘の話に日がな耳を傾けました。一方、母親は結婚後、音楽を離れ家族のために生きました。
1881年に妹クレタが生まれます。アルマは、後年、妹は父と別な男性との間に出来た子供だと母親から直接聞かされます。父親が受けた衝撃はどれほどのものだったかと、あくまでも父親に同情的でした。そうは言え、妹のことは可愛がり仲よく暮らしました。
父親はハプスブルグ帝国下、ルドルフ皇太子のお抱え画家として、アルマは何不自由ない家庭に暮らしました。自宅には、画家はもとより芸術家たちが父親を慕って集まり、お互いの意見を交わし刺激を受け合いました。その中に、後年世界的な人気を得たグスタフ・クリムトもいました。クリムトは美しいアルマに一目で心を奪われます。二人は引かれ合いますが、父親がこれを嗅ぎつけ、つかの間の恋として終わりました。
その後、アルマは父親から作曲の勉強を勧められ、ツェムリンスキー(A. Zemlinsky, 1871-1942)に師事しました。もともと絶対音感もあり、音楽的に優れていたアルマは、新しい課題を次々こなしました。アルマのこの頃の述懐、「私はシューマンとシューベルトが好き、でも、何といってもワーグナーだわ。ワーグナーなくして音楽は語れない」。ワーグナーの歌曲をいつも歌っている娘だったのです。師のツェムリンスキーもワーグナーがお気に入りでしたから、二人は意気投合しました。ちなみに、ツェムリンスキーはブラームスがサポートを惜しまないほどの才能でした。また、育てた弟子には、シェーンベルク(1874-1951)がいます。

師のツェムリンスキー
ツェムリンスキーは、会うたびにアルマの美しさに魅了されていきました。それは子弟関係を超え、どんどん激しいものに変わっていきます。しかしながら、7歳の年の差もあり、アルマは相手を重く感じ、また、ツェムリンスキーはアルマに、音楽で身を立てられるほど真剣に続けるか? それとも、社交界の花となって音楽は人生の楽しみの一つにとっておくか? 君には後者が似合っているだろうと、意地悪な言葉を言い放ちます。並み居る男性を引きつけてやまない、奔放そうなアルマにして、心は揺れても後者の選択しか考えられませんでした。
加えて、この時代はフランスがそうであったように、少しずつ男女平等の思想が入り、文化的な場所で女性たちが目立つ機会も出てきました。とはいえ、それは決して主流の思想ではなく、そんな女性はキワモノ扱い。封建的、保守的な男性社会だったのです。
19世紀末のウィーンは、芸術家の新しい運動、「セセッシオン・ウィーン分離派 Secession」の出現がありました。ヨーロッパ各国で、それぞれアールヌーヴォーが発展します。セセッシオンはオーストリアの、アールヌーヴォーに連なる運動です。

アルマとマーラー
美しく魅力的なアルマは、行く先々で注目の的となり、男性たちの興味を引きます。その中で、次の男性は作曲家のグスタフ・マーラー(1860-1911)です。半年後には身ごもり、早くも結婚を決めました。アルマ22歳、マーラー42歳。ボヘミア出身でアルマより背の低い、決して素敵な男性ではありませんでしたが、二人は初めから惹かれ合いました。
マーラーは、すでにウィーン・フォルクスオペラの主任指揮者、いささか突飛で奇抜な性格とはいえ、確立された大人の男性でした。仕事が終わると毎晩判で押したように帰宅します。夏の別荘でも、作曲のための小さな離れにこもりっきり。生活の全てを作曲と指揮に注ぎました。一方で、妻には家庭を守ることを厳しく言い渡し、アルマは素直に献身的に尽くしました。そして、一家に二人の作曲家はいらないと、彼女の作曲は禁じたのです。

マーラーとの子供たち、アンナとマリアと
娘が二人出来ましたが、その一人は幼くして亡くなりました。アルマは悲しみと絶望から自分をとことん責め、気持ちは沈む一方でした。このころのアルマの日記に、自分を癒すものは唯一音楽である、音楽が頭の中で強く鳴っているとの記述が見つかります。
その後ほどなくして、二人の夫婦仲に決定的な亀裂が入ります。不穏な夫婦関係を修復しようと、マーラーはアルマのご機嫌をとります。止めていた作曲を突如許し、楽譜出版すら業者に掛け合います。それでもアルマの心はマーラーから離れ、建築家のグロピウスに移って行きました。この頃のアルマの作品が1910年の「5つの歌」と言われていますが、アルマは生涯作品番号も年代も記さなかったため、あいにく定かではありません。
神経症や強迫観念に悩んだマーラーは、離婚を避けようと精神分析医のフロイドに通ったことはよく知られた話です。フロイドは、マーラーはチェコで質素に暮らした母の幻影をアルマに求め、アルマは若くして亡くした「完成された男性ー実父」の影を年上のマーラーに求めた、と分析しました。一時とは言え、この分析にマーラーは気持ちが楽になりましたが、体調不良のまま1911年に亡くなりました。

車椅子に座る娘マノン
マーラー未亡人となったアルマは、次は建築家のグロピウス(1883-1969)と5年間の結婚生活を送りました。一粒種の娘・マノンを溺愛しました。マノンは美しく聡明でしたが、小児麻痺にかかり車椅子生活を余儀なくされ、病気により急逝しました。再び子供を失ったアルマの嘆きは筆舌に尽くしがたいものでした。
この後、画家ココシュカとの激しい恋愛もありました。ココシュカにとってアルマは永遠の女性、アルマが去った後、寂しさのあまり、等身大の「アルマ人形」を作らせたのは有名な話です。ココシュカは晩年アルマに再会を申し込みましたが、アルマは若き日の美しい思い出はきれいなままにと、受け入れなかったそうです。
最終的な夫は、年下の作家ヴェルフェル(1890-1945)です。ヴェルフェルがユダヤ人だったため、戦時下にナチスを逃れロスアンジェルスに居を構えました。早産で男の子を産みましたが、10か月で亡くなっています。
同じくヨーロッパから亡命していた若き才能たちが、ヴェルフェルとアルマの元に集まりました。コンゴールド、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、シャガール、作家のトーマス・マンなど、錚々たる顔ぶれです。

アルマとアンナ
夫が亡くなった後は、有名人の未亡人として「アルマ・マーラー・ヴェルフェル」を名乗り、ニューヨークのマンハッタンで生活しました。レナード・バーンスタインやジョージ・ショルティ等との親交があり、マーラーの作品がかかるコンサートに招かれては社交界に身を置きました。ヴェルフェルを亡くした後は一人で暮らし、糖尿病に悩まされても、毎晩ウィスキーのボトルを一本空けるほどでした。そして1964年、85歳で生涯を終えました。
アルマは生涯4人の子供を産みました。唯一、元気に育ったアンナは、マーラーを父に持つ娘。次々と養父が変わる環境を強いられ、大人になってはロンドンに住み、アーティストとして実績を残しました。母親との関係は決してよくなかったようです。
アルマには反ユダヤの思想が根深くあり、そうは言っても、夫だったマーラーとベルフェルはユダヤ人でしたので、実のところ、ユダヤの血の入らない夫グロピウスとの一粒種マノンが、一番自分に近くて可愛いと、マーラーとの娘アンナに面と向かって言い放ったという記述があります。ユダヤの血を引く子供が自分の子宮に宿ったことは耐え難いとまで発言しています。
アルマにとって、文句のなく完成された男性は、唯ひとり、父親でした。父親はアルマがまだ13歳のときに亡くなっています。芸術家の集まる自宅サロンで娘を溺愛する父と、そのお取り巻きに囲まれました。この幼き時代の環境が、生まれ持った美貌とともに、どこへ行っても社交界の花として身を置く才覚を培ったのかもしれません。また、関係を持った男性たちは、それぞれの分野で大きな仕事を成し遂げた人物ばかりです。アルマは男性の才能を開花させる才覚があった女性とも言えるでしょう。
作品は、歌曲のみ計16曲が残されています。「5つの歌」2作品と「4つの歌」、その他単品の作品です。室内楽やピアノ曲も書いたと記録はあれど、楽譜は残されていません。これほどの人生経験、そして、創作にもっと心を寄せていたとすれば、どれほど素敵な作品を後世に残していただろうかと、思いは巡ります。
出典
フランソワーズ・ジル著、山口昌子訳『アルマ・マーラー ウィーン式恋愛術』河出書房新社、1999年
アルマ・マーラー著、石井宏訳『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』中公文庫、1987年
Oliver Hilmes (Authur) /Donald Arthur (Translator)、Malevolent Muse: The Life of Alma Mahler, Northeastern University Press, 2015
Sarah Connolly,"The Alma problem," The Guardian, 2010
https://www.theguardian.com/music/2010/dec/02/alma-schindler-problem-gustav-mahler
"Alma Mahler" Wikipedia in English
「アルマ・マーラー」 日本語ウィキペディア
この度の演奏は、1910年の作とされている「5つの歌」より2作品を、筆者によるピアノ編曲版でお届けします。メロディはブラームスを感じさせ、和声は退廃的で斬新な響き、アルマ独特の強い個性を感じます。3番ファルケ詩「暖かい夏の夜」と、4番リルケ詩「あなたのそばでは」です。
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