「私の配偶者」という言葉を使う先生が高校にいた。   

初めてこの言葉が出てきた時、聞き慣れない呼び方にクスクス笑い出した生徒に対して「ああ、私は配偶者のことは配偶者と呼びます。奥にいる人でも家の女でもありません、配偶者ですから」と続けた。奥さん、妻、嫁さん、かみさん、女房…思えば色々な呼称を他の先生からは聞いたが、「配偶者」はこの人のみだった。

この先生はチョークを使うときに、手元にある要らない紙をビリっと派手に破ってチョークに巻きつけて使うのを習慣にしていた。それを面白がったクラスメイトの一人が、あるとき始業前にチョークに紙を巻いてセットしておいたことがある。何だこれは!という類の反応を期待してのことだったが、見つけると彼は穏やかにこの行動のちょっと意外な理由を語った。

「あ、これありがとうございます。実は私はチョークを素手で触ると手が荒れてしまうんですよ。我が家は共働きで同様に忙しいので家事は分担していて、私も洗濯をするんですが、荒れた手ですると配偶者のストッキングを伝線させてしまって、配偶者が怒るんですね。なので仕方なくこうすることにしているんです。」

からかいがいのない理由だったなという軽い落胆と気まずさの中で、私はそうかこの人は洗濯してるんだなと思った記憶がある。

働き、結婚し、家事をすることについてずっと身近になった今、このエピソードを思い出すとふと励まされる。「普通に思われること」ではなく、自分の感覚に添って言葉を使う。当たり前に家事をする。淡々と行動している人は、前から私の身近なところにもいたのだと思わせてくれる。

さらに彼は生徒に対しても「あなたたちは高校生で、もう『子どもたち』などではありません」という理由で、生徒を「あなた」やさん付けで呼び、ですます調で話していた。たまに声を荒げてこのルールを破ってしまった時には「失礼」と言っていた。

当時はただ「この先生、こういう感覚がいい感じ」と思っていた。だが今ならもう少しはっきりと言える。先生の「いい感じ」は「人を人として尊重する」だったと思う。それを彼の中で具体的な言葉に置き換えたのが「配偶者」であり、生徒への「あなた」だった。

こうした部分だけを書くと品行方正で物腰柔らかな人のようだが、実際にはズケズケとした物言いの小話をはさむ、「毒舌」という言葉が似合う先生だった。授業もなかなか手厳しかった。彼に叩き込まれた知識のおかげで勉強がはかどったことを私は感謝していたが、こんなに経ってから教えてくれることがあるとは思わなかった。

届けるあてのない「ありがとうございます」を走り書きする。

■ 小澤さち子 ■