今回は、クロアチア出身のドラ・ペヤチェヴィッチ(Dora Pejacevic) をお送りします。1885年、ハンガリーのブダペストに生まれ、1923年、ミュンヘンで38歳の若さで亡くなりました。当時のクロアチアは、オーストリア・ハンガリー二重帝国の下、自治領として位置付けられていました。

 もともとペヤチェヴィッチ家はクロアチア東部ナシツェ(Nasice)出身、父はテオドール(Teodor)、祖父や父親は政府の要人を務めました。一方で母親のリラ・バイ・ド・バヤ(Lila Vay de Vaya)はハンガリー伯爵家の出身、類まれな美貌を持ち、多方面に才能があふれていました。声楽の研鑽を積む上に、アマチュアとしてピアノも弾き、また絵もたしなみました。そしてナシツェ出身の芸術家たちへ援助を惜しまず、クロアチアの音楽院パトロンも買って出ていました。


    右端がドラ

 ドラは、この小さな町にたたずむペヤチェヴィッチ家の宮殿で幼少期を過ごし、母親の影響のもと豊かな芸術的環境を享受し、また宮殿内の図書館で読書にふけり、知的好奇心を大いに育てたのです。彼女は日記を書く習慣があり、それは亡くなる直前まで続きました。後年、ニーチェ、イプセン、ドストエフスキー等あらゆる読書に親しみ、外国語も数カ国を操ったそうです。また、この宮殿は大人になっても折に触れては帰り、散歩を好み自然に親しんだそうです。

 ほどなくして一家は、クロアチア内ザグレブに移ります。ドラは音楽院で教鞭をとるバイオリン教師にプライベート・レッスンを受け始めました。その他、楽器法や音楽理論も先生について勉強しました。音楽院では度々コンサートが催されており、ドラも大いに楽しみました。作曲は12歳で始めたとされています。音楽院では自作を演奏してもらう機会もあったそうです。

 その後、両親は娘に宿る生半可ではない音楽への情熱・才能に、伸ばしてやれるものなら伸ばしてやりたいと、いよいよ国外へ送り出しました。1910年頃にはドイツ・ドレスデンへ、その後ミュンヘンで勉学を続け、対位法やオーケストレーションに加えて、本格的な作曲も学びました。

 1911年には、リヒャルト・シュトラウスのオペラ初演をドレスデンで聴く機会もあり、二つの土地は、さらなる豊かな刺激をもたらしました。第一次世界大戦が起こるまでの数年、精力的に作曲に取り組みました。独学で学んだ記録である音楽ノートが残っており、フーガや対位法の練習を反芻に反芻を重ねた跡が見て取れます。

 加えて、彼女は様々な土地を旅してまわりました。ウィーン、プラハ、ブダペストと、各地で心の通う友人たちに出会いました。オーストリアの作家カール・クラウス(Karl Kraus )は、共通の友人に宛てた文章の中にドラに関する記述が見られ、ベールに包まれた彼女の一端を垣間見ることができます。ドラは戦地へ出向き従軍看護婦として働いたこと、戦争への悲惨な思いや体が受けた恐怖を語っていたと綴られています。ちなみにカール・クラウスは、世紀末ウィーンの新芸術運動/分離派(セセシオン)に連なり、評論新聞「炬火」の出版ほか、日本では、「カール・クラウス著作集」(法政大学出版)、池内紀著「カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり」(講談社学術文庫)等が出版されています。

 また、1920年、のちに義理の妹となった友人ロサに宛てた記述には、「どうして世の中の人は働きもしないで生きていられるの? とりわけ高い身分にいる者たち、どうして何もしないで日がな過ごせるのかしら? 軽蔑するわ」、「彼らの興味といえば、ブリッジやポーカーだけ、急にそわそわしたと思ったら、自分の領土が取られそうになった時だけ」とあります。そこには、自我・自立心の旺盛さ、手厳しく社会を観察する姿を見て取れます。

 そして、1920年、ドレスデンで彼女の交響曲が初演されます。観客に熱狂的に受け入れられ、素晴らしい批評が出ました。勢いに乗り、引き続きライプツィッヒ交響楽団で作品が演奏される予定でしたが、生憎なことに指揮者の不慮の死により叶わぬこととなります。これを境に、彼女の作品がコンサートにかかることは徐々に減っていきました。

   ドラと夫

 この後、どんどん発言を控えるようになり、旅から旅の生活から徐々に遠のいていきました。それまでは、どこまでも自由で思い通りに生きてきましたが、疎外感や孤独感も感じるようになり、誰かと一緒に生きるという気持も芽生えてきたのです。

 夫となった人は、友人ロサの兄オットーマール・フォン・ルンべ氏(Ottomar von Lumb)で、1921年秋に盛大な結婚式を挙げました。結婚後はミュンヘンに暮らし、ほどなく妊娠します。今から約100年前の医療事情のもと、子供を持つにはいささか年齢が高いために母体の負担に危惧もありましたが、1923年1月に無事男の子を産みました。テオ(Theo)と名付けました。しかしながら、2ヶ月後に悲劇が襲います。かねてより患っていた腎不全が体を蝕み、とうとう亡くなってしまいました。

 出産前から体調の優れなかった彼女は、命が長くないことを察したのでしょう。亡くなる3ヶ月前の日付で夫に宛てた手紙があります。婚姻解消の意思を暗にほのめかし、伴侶として共に暮らしたことへの感謝の言葉を残し、その上で、一人残されるであろう子供に対する気持ちを書き綴りました。「自由な環境で育ててほしい、成長した暁には、柔軟な精神で人生を選択する聡明さを持ち合わせていてほしい。両親や親族など周囲の影響ーそれは我が身の経験から言えることですが、性差によって育て方に違いをつけないでください。豊かな人生を歩んでくれるよう、父親として愛情深く育ててほしいと願っています」。

バイオリンを持つドラの肖像の前に立つ息子テオ

 ちなみに、息子のテオは母亡き後6ヶ月ほどはドラの両親がナシツェで育て、その後生涯をウィーンで過ごしました。「母には写真でしか会うことが叶わなかったけれど、母は私の心にずっと居続けました」と、クロアチアのメディア・インタビューで語っています。2011年には、長年所有していた絵画、バイオリンを持つ母の絵をクロアチア政府に寄贈しました。母の国に返すことで、広くクロアチア国民の目に触れてほしいとの思いでした。現在、その絵はザグレブの近代ギャラリーに展示されています。息子はその翌年2012年、89歳で生涯を閉じました。


 作品は12歳の1897年より亡くなる前年の1922年まで、26年にわたり書き続けました。作品番号付きが57曲、番号のないものが1作品、合計58作品が残されています。これらの作品は、ドラの家族よりクロアチア音楽研究所に寄贈されましたが、長いこと手書きの楽譜のまま所蔵されていました。近年やっと楽譜出版がなされるに至りました。

 初期の作品は小品のみ、まだ書法は確立されていないながら、その後に至る豊かな才能の芽を見て取れます。その後、とりわけ1916年から1920年に書かれた作品に、彼女の成熟した才能が余すところなくあらわれています。この時期は室内楽、交響曲、幻想的小協奏曲、序曲を書きました。室内楽にはピアノ3重奏、ピアノ4重奏、ピアノ5重奏。また、交響曲作品41はスケール感に溢れ、大きな才能を感じさせるものです。その他、ピアノ協奏曲、バイオリンとピアノのソナタ、チェロとピアノのソナタ、たいへん素敵な歌曲の数々を残しました。

 なお、ペヤチェヴィッチ家のナシツェにたたずむ宮殿は、現在は彼女の名前を冠した音楽学校として使われ、彼女の等身大の写真と共に、使っていたピアノが陳列されています。この宮殿は、1990年頃に起こったクロアチ紛争/内乱で建物も被害を受けましたが、その後修復がなされ、現在は美しい館に旅行者も訪れています。

 終わりに。ドラは高貴な出のお姫さまとして育ち、仮に音楽的才能やこれほどの知性、向学心を兼ね備えていなければ、他の多くのお姫さま同様、別な人生があったであろうことは容易に想像がつきます。ドラがこの時代に感じたであろう違和感や孤独感に思いを馳せ、彼女の歩んだ人生に大きなエールを送りたいと思います。

 今月の作品演奏は、作品10「無言歌」、作品19「花の一生」より第4番「私を忘れないで」をお送りします。


参考資料<br> Film: The Countess Dora (1990)
Vladimir Maleković, Vesna Lovrić Plantić, Historicisim in Croatia, Graham McMaster 2000
Croatian Music Center : Dora Pejacevic
  http://www.mic.hr/composer/dora/composer_articles/bio#
小林緑  女性作曲家ガイドブック(2016、非売品)
西井葉子:YOKO NISHII ’s WEBSITE
      http://www.amigo.ne.jp/~rn181023/
西井さんのペヤチェヴィッチ全曲作品CD案内のページ
     http://www.amigo.ne.jp/~rn181023/discography.html