
底辺女性史の名著『サンダカン八番娼館』は、作家の山崎朋子さんが、天草島に暮らす元からゆきさんの老婆、おサキさんと三週間をともにしながら、その半生を聞き取った歴史の証言です。
おサキさんは、少女時代に北ボルネオの港町サンダカンの娼館に売られ、20年余りにもわたり体を売ることを余儀なくされ、帰国後は、差別を受けながら、島のあばら屋で一人暮らす女性。見も知らぬ山崎さんが、突然訪れてその悲惨な半生を聞き出すことは、たやすいことではありません。なぜ山崎さんは、おサキさんと心を通わせることができたのか。本書『サンダカンまで』に綴られた山崎さんの波瀾に満ちた半生を読むとその疑問が解けます。
1932年生まれの山崎さんは、海軍の潜水艦艦長だった父を幼少時に亡くし、母の故郷、終戦直後の福井県で育ちます。高校時代に演技にめざめるも、母の説得で大学卒業後は地元の小学校の教諭として勤務します。1954年に、意を決して女優を目指して単身上京、教師やウエイトレスとして働きながら演技の勉強に励みます。そんな中で知り合った朝鮮人青年との恋と極貧の中での事実婚、そして朝鮮民族解放運動の中での別れ。失意の日々の中、山崎さんに好意を寄せる知人男性に突然顔をメッタ切りにされるという事件に巻き込まれ、残された女優の夢も完全に絶たれてしまいました。
ここで、人生に絶望して自暴自棄になってもおかしくはありません。
しかし、朝鮮人の男性と暮らす中で受けた言われなき差別、容姿をズタズタにされたことで受けた心無い言葉、冷たい視線、自ら差別される側となって感じた大きな不条理は、山崎さんを、最も差別された存在である「女性」の研究へと向かわせました。
児童文化研究者の夫と結婚し、女の子を出産した山崎さんは、母親は家庭に入るのが当たり前の当時の社会でも、諦めません。夫婦共働き、共子育てしながら、アジア女性交流史研究会を立ち上げ、女性史の研究にまい進し、『サンダカン八番娼館』を上梓。本書は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、映画化もされました。
地方に住んでいるから、学歴がないから、保育園がないから、女だから――そんなことは言い訳にはならない。「ワーキングマザー」などという概念すら存在しなかった時代に、人生を自分で切り拓き、こんなにも強く生きた女性がいた。このことは、今なお女性が働き続けることが当たり前ではないこの社会で、多くの方に知っていただきたいことです。
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