FBにシェアされた記事を読み、「うまいな」と思った。「日本が中国に完敗した今、26歳の私が全てのオッサンに言いたいこと」 勝手に「終わり」とか言ってんじゃねえ(藤田祥平)。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53545
ネット上でしか知らない筆者だが、彼はバブル崩壊後の1991年生まれの「失われた世代」。ウェブ媒体で記事を書き、ミュージックビデオ、ビデオゲームレビュー、食と旅にまつわるコラム、小説書評など、注文があれば何でも受ける文筆業の若者だ。中国のバーチャル・リアリティ市場の調査のための取材旅行記。ひと目、中国を見て「負けたのだ、日本が。少なくとも経済的には」と見抜く。
スマホのQRコードで決済し、街中は「mobike」の乗り捨て自由のシェア自転車が散在する。若い労働力が溢れる中国。この国に日本ができることは「文化の斡旋」しかないという。日本のオッサンたちに向け、「能力のある若者に適切な権限を与え、いい加減に労働時間をまともなものに変更し、女性の給料を男性と同じにし、すでに未来のない国内戦から撤退し、中国と独自の協調路線を取れ」と彼は言う。「彼らの決断はおそろしく速い。ちょっと首を傾げるような詰めの甘い企画のプロダクトが、すでに市場に溢れている」と。
そうなのだ。娘が10年前、東京で通訳として勤めていた中国の会社・華為(Huawei)も、まさにそうだった。1987年、華為技術有限公司は、中国の通信機器メーカーとして中華人民共和国深圳市に設立。2005年、ファーウェイジャパンを東京に発足させる。あれよ、あれよという間に今や出荷台数・シェアも世界第3位となった。
中国から若い優秀な社員がどんどん送り込まれてくる。彼らはアッという間に日本語をマスターする。自分の新企画を堂々と主張し、互いに引くことがない。男女間の差別もない。女性社長は、息子を中国の奥地に住む夫に預けて働いている。勤務時間は精一杯働き、遊ぶ時にはよく遊ぶ。昼休みの1時間、デスクの下に布団を敷いて、きっちり昼寝をとる。たった一人の日本人社員だった娘は、毎日が「香港ドラマ」を見るような、おかしくも、ワクワクする気分だったという。
そしてあまりに個人的な、私の中国とのかかわりは75年前に遡る。1942年、母は女学校を卒業後、18歳で結婚。夫の赴任地・北京へ渡る。天檀の前で写る母の写真は若々しい。翌43年、肋膜炎と腹膜炎を患った身重の母は私を鉗子分娩で早産する。8年前、86歳だった母から私の誕生日に長いメールが届いた。「元気に、この日を迎えられ、何よりうれしく思います。思えば昭和18年の夏、北京は晴天。もう秋の空気だったことを思い出します」という書き出しだった。
今は94歳、何もかもすっかり忘れて呆けてしまったけれど、叔母と二人、熊本で元気に暮らしているのがうれしい。時々、中国の話に水を向けると、娘より上手に中国語の「四声」を発音するのが、なんだか不思議だ。
蘇州大学
それから50年後の1991年、大学3年の娘は中国へ留学。天安門事件の後で北京にはいけず、蘇州大学へ。京都パレスサイドホテルのレストランのバイト仲間が、「鑑真号」で出発する娘を大阪の築港まで見送ってくれた。みんな南米のペルーやブラジルの日系人だった。
上海から硬座の列車でガタゴトと1時間あまり。蘇州駅から槐(えんじゅ)の樹の並木道をパカパカと馬車に乗って大学まで。専家楼の宿舎で中国系カナダ人のカーシーと少数民族(苗族)のアーチーが仲良くしてくれた。カーシーは「僕はゲイだよ」といい、アーチーの両親は中国共産党の幹部だった。
当時、中国では結婚は登録制度で政府の許可がいり、大学生は結婚できなかったとか。「一人っ子政策で国は晩婚化を進めているから」と手紙には書いてあったが、それも今は昔の話。
夏休み、娘は中国東北部へ一人旅に出る。大連外国語大学の宿で、戦前、日本の旧租借地(関東州)で過ごしたという日本人男性に日本統治下時代の話を聞き、温州からきた中国人男性に「嫁にこないか?」と口説かれてびっくりしたことも、若い頃の思い出の一つかな。
上海の夜景
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1991年秋、娘が留学中にと、生まれ故郷を訪ねてみたいと中国・北京へ飛ぶ。まだリコンファームが必要だった頃。娘に手続きを頼み、母が描いてくれた地図を頼りに王府井から東単あたり、塀に囲まれた胡同をうろうろ歩いて探したけれど、上海ほど、まだ開発の進んでいない北京市街でも、その跡を見つけることはできなかった。
2008年、上海、蘇州を再訪する。あまりの中国の変わりように、もうびっくり。上海甫東空港から時速431キロのリニアモーターカーで都心へ。未来都市のような東方明珠塔側から眺める准灘の華やかさ。上海から蘇州へ高速道路が一直線に走り、延々と工業団地が連なっていた。
中国は大きく変わった。これからもどんどん変わるだろう。変えていくのは中国の若い力だ。

中薗英助著『北京の貝殻』(筑摩書房、1995年)を再読した。著者は1920年生まれ。敗戦によって在留9年の中国から追い出されて以後、二度といくことはあるまいと思っていたが、41年ぶりに1987年、北京を再訪する。「胡同をさまよって老北京風に還ったわたしの内部に甦り、帰国後もなおまつわりついて離れない幻に形を与えようとする小説となった」と、あとがきに書いている。
望郷の思いと、新世代の新鮮な目で見る中国という国。違っているようで何も違わない。中国は、いつもそこにある。
戦後72年。そして戦後80年には、もう戦争を語り継ぐ人はいなくなる。戦争の「記憶」と「記録」、引揚げの「歴史」も含めて誰も語る人がいなくなったら、あとは若い人たちの新しい視点を待とう。たとえゲーム感覚でもいい、デジタルアーカイブを駆使してでも、彼らは彼らなりの感覚で、過去の「記憶」と「記録」を、きっと次代の人々に残してくれると思う。
イキのいい、若い人たちに夢を託して。あとはよろしく頼んだからね。
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