11日、大阪の電車内で、眠っている女性にキスをした男が準強制わいせつの疑いで逮捕されるという事件があった。電車でつい寝てしまった経験は多くの人にあるはず。そこに見知らぬ男がキスなんて、けしからんにもほどがある。被害女性はどれだけ気持ち悪く、ショックを受けたことか。

 「眠っている女性にキス」で思い浮かぶのは、白雪姫や眠り姫のおとぎ話。考えてみれば、「王子様」とはいえ見知らぬ男。眠っているところに勝手にキスするなんて、このニュースの準強制わいせつ容疑者と大して変わりはないのでは?とツイートしたところ、結構にバズって、「「白雪姫」王子のキスは「準強制わいせつ」 阪大教授ツイートめぐり激論に」と派手なタイトルでYahooニュースに取り上げられるまでに。

 ツイッターでは、誤解や誤読、強い調子の批判や非難も少なくなかった。多少はツイッター上で続けて発言したものの、文字数の限られた中ではじゅうぶんに表現できないこともあり、あらためてなぜおとぎ話の王子のキスが性暴力なのか、それに着目することがなぜ必要なのかを、典型的な批判リプに応えるかたちで本稿で論じていきたい。

フェミニスト文学批評という試み
 批判でもっとも多かったのは、「おとぎ話をそんな風に解釈するなんて頭がおかしいのでは」、「現実とフィクションの区別がついていないのか」、「夢を壊すな」等々のたぐい。 
   この手の方々には、文学批評というジャンルをご紹介したい。おとぎ話にかぎらず、文学、映画、マンガ等々は、作り話であれ、世の中に広く流通し多くの読み手を得ているということは、そこに私たちがリアルに生きる社会の何かが何かしらの形で映し出されているということだ。文学批評は、そこに潜在し埋もれている社会のコードを読み解いていく(社会の事実がそのままそこに書かれているなどと解釈しているのではないですよ、くれぐれも念のため)。評者は、著者自身が意図した以上を読み取ることも往々にあるが、それは、あたっているかいないかといったレベルの話ではなく、評者独自の読み取りから引き出される面白さ、そこに見えてくる新たな世界観に批評としての価値が現れる。

 文学評論のなかでも、フェミニスト文学批評というジャンルは、とくにジェンダー視点から興味深い読み方、論点を提示してきた。「作品の価値を理解しない野蛮な読み」などと見当違いな批判をされながらも、権威とされカノンとされる文学作品も含めて、鋭くメスを入れ、底流として、あるいはあからさまに流れる男性中心的な世界観を覆す読みをしてきた。 おとぎ話についても同様で、私が今回ツイッターで指摘した、おとぎ話の一つの定番(おとぎ話はどれもさまざまなバージョンで改変されているが、とりあえず現代の日本でもっとも普及しているディズニー版を念頭にして)の、王子様の突然のキスでお姫様が目覚め二人は結婚してハッピーエンド、というストーリーも、観点を変えてみると、王子という高貴な身分であれイケメンであれ、「森で出会った見知らぬ女性に(深く眠っているのだから当然、意思確認も同意もなく)キスをする」というのは、普通信じられているようなロマンティックな夢物語どころか、性暴力だと読み取ることもできる。

 西洋出自のおとぎ話だけでなく、日本が世界に誇る古典文学である『源氏物語』も、普通に読めば、高貴な身分でみめうるわしき光源氏の恋の遍歴を描いているわけだが(ストーリーは複雑で、それだけを描いているわけではないが)、これも、観点を変えれば、帝の息子で朝廷の超有力者という地位を利用して朝廷内外に生きる女性たちに性的接近を行う、悪質なセクハラストーリーだと読み取ることもできる(実際、いくつものシチュエーションで、相手の女性は「面目がない」と拒否の姿勢を示すのだが、源氏に押し切られている)。
 これらの「読み」は、それらの作品の価値を貶めたり否定したりすることでもなんでもなく、むしろその作品世界の理解を深め幅をひろげていくことであって、ましてや(ツイッターでのリプで実際あったのだが)「作品を発行禁止にしろ」などと主張しているのではないことは言うまでもない。

詩織さんの闘いに連なる 
 私が今回ツイッターでつぶやいたのは、電車での犯罪行為のニュースが直接のきっかけではあったが、伊藤詩織さんの闘いに連なる意図があった。彼女の勇気ある告発で、意識が無い状態での性行為はレイプであるという理解が広く知られるようになった。なにしろ、TVドラマでもマンガでも、「女性を酔わせてモノにする」たぐいのストーリーが溢れており、しかもそれは「やんちゃ」「ラッキー」であるかのように描かれて、実は犯罪にほかならないという認識が薄い、おそるべき誤りがこの社会には広がっている。現実に起こっている性暴力犯罪も、それを真似たかのようなものが多々みられるのは本当に腹立たしい限りだ。そのなかで、詩織さんの告発は、大きな教育的・啓発的効果があったと思う。だからこそ今、さらに、おとぎ話はじめいろいろな物語のなかで、意識のない女性に性的行為を行う性暴力がロマンティックにさえ描かれてきたことが、女性の意思を無視して性的行為を行うことの犯罪性を見過ごしてしまう一因にもなってきたのではないかと気づくことは、性暴力に関する認識を変え防止を進めるステップとして大きな意義があるはずだとツイートしたのだった。

「結果オーライ」が隠蔽するもの
 もう一つ、批判リプで多かったのは、「姫は王子様と幸せに暮らしたというエンディングなのだから、『キスに対する推定的同意がある』のだから問題ない」というもの。しかし、この理解は本当に危険だ。そのように「結果オーライ」を捏造してどれだけ性暴力が見過ごされてきたか、考えてみてほしい。AVはじめアダルトコンテンツでは、強姦・レイプで女性は最初は激しく抵抗していても、「女は結局は快感を得る」のだからOK、のごとく描かれがちだが、それと同じではないか。実際のレイプの多くは、交際相手や職場の上司や同僚、親族や知り合いなどの人間関係がある中で起こるが、被害にあった女性の多くは、ショックを受け体調を崩すような状態になりながらも、誰にも被害を相談せず、警察にも届けていない(内閣府男女共同参画局「女性に対する暴力」に関する調査研究) 被害女性たちは、辛い気持ちや心の傷を抱えながらも、相手との関係のために被害を信じてもらえない、警察に言ってもムダ、被害を訴えたりしたらどんな報復にあうかわからない、、、と諦めているのだ。
 この調査には、そのレイプの相手はその後どのような行動を取ったかという項目は無いが(それを調査するのは現実には非常に難しいだろう)、研究者・アクティビストとしてさまざまな性暴力やセクハラの事例に接してきた経験から言うと、当の相手は「なんとも思っていない」「自分のしたことがレイプだとは思ってもいない」だろうと想像がつく。いい思いをさせてやった、くらいにさえ思っている男たちも居るに違いない。もしかすると、それが繰り返されて、あたかも「恋人関係」のようになったり、妊娠してやむなく結婚に至ったケースすらあるだろう。被害者の苦しみや葛藤に無頓着でいられる者は、これを「結果オーライ」と考えるのだろう。

 このように書くと、なぜそこまで悪く考えるのか、よっぽど不幸な生活をしているのだろう、との印象を持つ人もいるだろう。これが今回のリプで多かったパターンのもう一つで、余計なお世話、「あんた私の何なのさ」と古臭いせりふを返したいところだが、実はその気持ちはわからないではない。上野千鶴子さんが、名著『女嫌い――ニッポンのミソジニー』で、「本書は多くの読者にとって、女にとっても男にとっても――とりわけ男にとって――不愉快な読書経験をもたらすだろう。なぜならそれは多くの男女が目をそむけていたいことがらのひとつだからだ。」と書いておられるが、まさにその通り、当然と思い安住している世界に潜む差別や不公正を暴かれるのは、誰にとっても居心地のいいことではない。フェミニストとは、性差別の満ち溢れる世界に安住することに、激しさや表現の程度はさまざまであれ、No!と考える人々であるから、フェミニストにとっては、その暴きは、わけがわからないままに自分を取り巻いていた暗闇や混沌から自分を解放してくれる喜びであり目からうろこがおちる瞬間である。それは、いくら「そんなふうに考えるなんて非常識だ、不幸だ」と疎まれようが、多くの人に声を大にして伝えていきたい発見だ。疎まれ攻撃されるのが嬉しいわけではないが、そのことによって私たちを押しつぶそうとする社会や文化に風穴をあけていく、そのために私たちフェミニストは発言を続ける。

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

著者:上野 千鶴子

紀伊國屋書店( 2010-10-06 )

 冒頭にも書いた伊藤詩織さんもそうだが、海外でも、ハリウッドの大物プロデューサーが長年繰り返してきたセクハラに何人もの女優たちが被害を告発、それに呼応して多くの女性が、#Me Too のハッシュタグで、自分たちが経験してきた性暴力セクハラ被害にNo!の声を上げ、社会を変えようとしている。私たちは、それを、より広がりのある、より確実なものしていきたい。

性暴力告発への敵意と軽視
 今回のバズには、批判というより、単に意見が相入れないだけなのになんでここまで、とびっくりするくらいの人格攻撃もあった。上にも書いたとおり、自分が信じている世界に異を唱えられることに脅威を感じ、それが攻撃に転ずるというのは、賛同はできないにしろ人間の心理メカニズムとして理解はできる。しかし、今回受けた激しい反応には、それ以上に、「同意ない性行為は性暴力だ」と指摘されること・理解することに強い抵抗がある人々が少なからず居ると改めて思い知らされた。またそこには、「キスくらいで」といった、性的被害を軽視する風潮も強く感じる。多くの女性たちが悩み傷ついている痴漢も、「ちょっと触ったくらいで」「触られるくらい大したことない」と軽視し、No!と声を上げようとする女性たちを敵視する傾向すらある。こうしたなかで、性暴力に関する社会の認識を変えることはまことに容易ではないが、しかしだからこそ、声高く言っていかねばならないと痛感する。

希望をもって
 今回、上記のような否定的なリプも多数あったものの、それをはるかに上回る、賛同や同意のレスポンス、共感をしてくれているらしいRTを得ることができた。先日は、伊藤詩織さんの告発を「ウソだ」とする山口敬之氏の手記を批判する、「「強姦神話」を暴く---山口敬之氏手記を批判する」  を書いたが、これも、短い期間のうちに5万を超えるビューを得た。私の拙文でこれだけの関心が得られているのは、それだけ、性や性暴力をめぐる現在の社会の制度や文化のありように、なんかおかしい、と疑問をもつ人々も多数おられるということ。本記事、なんだか悲観的なことも書きましたが、私たちは希望をもっていいですよね!

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

著者:牟田 和恵

集英社( 2013-06-14 )