山口敬之氏が、伊藤詩織さんの告発に対する全面的な反論の手記を発表した(『月刊Hanada』10/26刊)。手記全体にわたる矛盾やごまかしについては、LITERA記事で詳細に論じられているが、本稿では氏の手記にはこれまで性暴力に甘い社会を作ってきた強姦・レイプにまつわる誤ったステレオタイプが垂れ流されていることに批判を加え、性暴力に関する社会的認識を多少なりとも変えていく一助となればと考える。これは詩織さんの願いでもあるはずだ。

「強姦神話」のリサイクル
「強姦神話 Rape Myth」という言葉をご存じだろうか。
「神話」は「よくできた話だが実は何の根拠もない」の意で、強姦・レイプに関する、もっともらしく信じ込まれてきた思い込みを指すが、その一つの典型が、性欲に駆られた見知らぬ悪漢が突然女性を襲う、というものだ。

もちろんこうした被害も生じており被害者の苦しみは重篤だが、実際には多くのレイプ被害が知り合いの間で、典型的には上司や客などの重要な人間関係のなかで起こっている。しかも、その関係のゆえに抵抗や告発がしにくく、被害を信じてもらえないといった、二重三重の苦痛を被害者は余儀なくされてしまう。詩織さんの事件はまさにその一つだが、山口氏の手記には、この種の手垢のついた強姦神話が溢れている。

「被害に遭ったらすぐに告発するはず」
これも強姦神話の一種だが、これがまさに、詩織さんの告発は虚偽だとする氏の主張の柱となっている。

氏は、もし本当にレイプだったのなら「なぜ最初のメールで言及しなかったのか」「なぜすぐに(デートレイプドラッグの)血液検査を受けなかったのか」、「なぜ事案から2年以上過ぎて」「レイプされた」と訴えたのかと、それが信憑性の無い証拠であるかのように書き並べ、「当時とは認識が違う」「後付けの被害者意識」と詩織さんの告発を偽りと決め付け貶めている。

しかし、詩織さんが自著『Black Box』でも書いているように、また、同じくレイプ被害に遭った女性の多くが語っているように、とくに知り合い間のレイプでは被害者は、それまで相手との間にあった信頼関係や尊敬の気持ちなどのために精神的ショックが大きく、自分の身に起こったことを理解するのに時間がかかる、被害を防げなかった自分を責める、「何事も無かった」かのように振舞おうとする等々の行動をとることはまったく珍しくなく、被害について口を開くのに時間がかかることも往々にしてある。
最近ハリウッドの大物プロデューサーの数々のセクハラ性暴力加害が明らかになったが、被害にあった女性たちもまた、何年もの後にやっと口を開くことができている。専門とする分野は違っても、国際的ジャーナリストを自称する山口氏であるのに、こんな古臭い強姦神話で申し開きできると思っているのだろうか。

「事実なら直後に被害を訴えるはず」という誤ったステレオタイプは、被害に遭った女性たちにますます沈黙を強いて性暴力に甘い社会を容認し存続させてしまうことを銘記したい。

「嫌だったら死ぬほど抵抗するはず」「ノーと言わなければ合意」
強姦神話のまた別種の典型が、本当に嫌なら死ぬ気で抵抗するはず、そうでなければ合意があったと疑われても仕方がないというものだ。
氏は、性行為の事実そのものは否定していない(この点は、氏が詩織さんに送ったメールでも明らか)。氏によれば、しかしそれは、詩織さんの意に反したものではなく、泥酔して意識がない状態でもなかったと言う。氏は、詩織さんは「あるときからすっかり酔いから醒め」、「大人の女性として行動した」と、詩織さんが冷静に性行為に同意したかのようにさえほのめかしている。

だがここで氏が詩織さんには「意識がなかった」ことの反証として得々と述べているのは、詩織さんが起き上がってホテルの部屋の冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを飲んだ、ということだ。しかし、トイレに行ったり水を飲んだりは泥酔状態であっても無意識のうちにやる行為だし、水を飲めばすっかり酔いが醒めるなら酒飲みに苦労はなかろう。

要するに氏は、詩織さんの自由意志でセックスしたのだと言いたいのだが、常識的に考えて、泥酔し嘔吐に苦しみベッドに倒れこんだ女性が、吐き気が収まったとしても性行為を自ら望むような元気があるなど、あまりにリアリティがない話だとは考えないのか。
詩織さんの人格を貶めたいのだろう、氏は詩織さんがホテルの氏の部屋で所構わず何度も嘔吐したというのを強調して書いているが、氏がそのように詩織さんを描くほど、氏のストーリーがバカバカしく聞こえるのは皮肉だ。
たしかにそんな状態の詩織さんは「イヤだ」とも言わなかった、否、言えなかっただろう(詩織さんは、意識を失っており氏にのしかかれた状態で下腹部の痛みで目が覚め、その時点で逃げ出そうと抵抗したと書いている)。相手がイヤだと言わなかった、それが「合意」の証、というこれまたあまりに古臭い強姦神話は、もうきっぱりと願い下げにしたい。

「強姦罪」のハードルの高さを被害者叩きに使う
氏が手記を著した理由は、事件は起訴に至らず検察審査会でも覆らなかった、だから自分は潔白だ、それなのに氏がレイプしたと主張を続ける詩織さんは氏を誹謗中傷しているから許せない、ということだ。この点は、ネット上での山口氏擁護にも同様のものが多数見られる。

常識的なことだが、刑事犯罪と民事での争いは全く違う。「疑わしきは罰せず」の通り、刑事で罪を問うにはハードルが高いが、とくに性犯罪では、旧態依然の条文(2017年改正を経ても)、警察や司法関係者の偏見等があいまって、「有罪」となるハードルが非常に高い。腹立たしいことに、「抵抗の度合いが少なかった」「加害者は合意があったと勘違いしていた」など驚くべき理由で無罪判決が続いているのが現状なのだ。

今回の事件では、氏が首相御用達のジャーナリストであることから権力による捜査への圧力が疑われておりぜひとも真相の解明が待たれるところだが、そうした権力からの干渉がなかったとしても、性犯罪に正当な判決を得るのは日本社会の現状では容易でない。

つまり、手記で山口氏が主張しているように、起訴されなかったから事実がなかったと証明された、「潔白」だ、というのはまったくミスリーディングであり、ましてや民事で争いを行うことを責めるのはお門違いだ。刑事事件としては罪に問うことができなくとも、被害者の性的自由を侵し人権侵害を行った不法行為であるとして、民事での争いを起こす(そして勝訴する)ことは多くなされている。もし、「犯罪と認められなかったのだから被害を訴えてはならない」などの主張がまかり通るならば、これもまったく重篤な人権侵害に他ならない。

社会の意識を変える
以上、論点を絞って簡略に述べたが、山口氏の手記が伊藤詩織さんをふたたび貶め苦しめる二次加害となっていることに、氏のみならず掲載した『月刊Hanada』誌にも怒りを禁じえない。

だが詩織さんは、捜査や司法システムの改正に加えて社会の意識を変えること、そして被害者を救済するシステムの整備を望んでいると10月24日の記者会見で述べている。山口氏の手記がせめて、その中に自ら暴露している、強姦・レイプに関する誤った認識の愚かさがより広く周知される役割を果たし、詩織さんの望む、社会の意識を変えることにつながってほしいと強く願う。

Black Box

著者:伊藤 詩織

文藝春秋( 2017-10-18 )