
若竹千佐子の芥川賞作品『おらおらでひとりいぐも』は、宮沢賢治の哀切な詩「永訣の朝」から、天国に旅立つ妹トシのつぶやき(Ora Orade Shitori egumo)を題にしている。もっとも、トシの(egu)は「死にゆく」だが、「おら」の桃子さんの「いぐ」は「生きていく」だ。
「あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおかしくなってきたんでねべか」。
いきなりの東北弁である。私は、七0年も前、女子大一年生だった頃、青森出身の国文科の上級生が「東北弁の発声はフランス語に似ているのよ」と言ったことを思い出す。東北弁と標準語の絡み合いを、目で追うのは面白いが桃子さんの賑やかな脳内対話を、私の朗読では生かせない。件の先輩に読んでもらったらどんなに魅力的だろう、と思ったのだ。私にとって、この小説の魅力は唯一つ、東北弁の見事な生かし方にあるのだから。
若竹さんは、「受賞の言葉」で、夫の死を「悲しかった。絶望しかなかった。それでも、私は喜んでいる私の心をも見つけてしまった。悲しみは悲しみだけじゃない、そこに豊穣がある、と気づいた。このことを書かずに私は死ねないと思った」と述べている。そして「一人孤独を生きることの痛みと喜びを知る老女を書いた」と。
悲しみと共にある「豊穣」とは? 孤独を生きる喜びとは? それらは納得のいく形で読者に届いたか?
作品は、芥川賞に輝く。
子供を育て上げ、夫を見送り、妻・母の役目を終えれば、己の「死」まで付き合うべきは「老い」。さてどう付き合うか。身の回りには数多の考え方、やり方が溢れ、桃子さんも脳内対話に忙しい。だが、この本の読者は、桃子さん流の処し方に、ヒントを得ただろうか。もちろんこれは小説であって「生き方案内」でも「孤独との付き合い方」のハウ・ツーでもないのだけれど。
私は六二歳で夫と死別した。発病してから八カ月、癌と分かってから半年、心を打ち込んで看病しながら、日々覚悟を定めつつあったとはいえ、彼の死は、この世のすべてから光をはぎ取った。私は仏門に入ることまで考えた。何とか日々を紡ぐことができたのは、彼を看取りながら書いてきたメモをワープロで打ち直す作業を自分に課し、伴侶を失った人々を訪ねる旅をしたから。さらに中国のタクラマカン砂漠をラクダで踏破し、天山山脈の最高地点をラクダから降りて自分の足で越えた時、風の中に夫の声を聴いたからだ。
「すごいところに来たなあ、自分を信じて生きて行けばいいんだよ」。
彼ははっきり、そう言った。私にはまだまだ力がある。それを信じて生きていける。ラクダの旅で私はよみがえった。
私は伴侶を亡くした人が、絶望の淵から起ち上り、新しく生き直すために語り合う集いを作った。来年で四半世紀になる。この体験から、桃子さんに危なっかしさを感じてしまう。桃子さんが、夫の墓まで傷ついた足で歩き通したことは、彼女の身体を使っての体験だが、それは彼女の生き方にどんな位置を占めるのだろう。些細な事にも柔毛突起が現れて、ワイワイガヤガヤと討論してことを進めていくのが桃子さん流だが、同じような体験を持つ人々とどうして語り合おうとしないのだろう。
桃子さんの思考は細切れで飛ぶ。ご本人は、長年の主婦という暮らしのせい、と言っているが;。自分一人の頭で考えたことは、別の要素が加わると、くるりとひっくり返るかもしれない。しかし体を使って感じ取ったことには、それなりの重さ・強さがある。また自分の内なる柔毛突起だけではなく、同じ体験をした仲間を作り、それぞれの思いを聴くことで、思いがけぬ発見があるかもしれない。体を使って分かったこと、仲間と語り合って見えてきたこと、それらの体験を経験にまで高め、それを言葉にしていく作業が必要ではなかろうか。
「母親としてしか生きられなかった」「自分より大事な子どもなどいない」「もう誰からも奪われることなんかない。奪うこともない。風に吹かれて行きたいところに行く。休みたいところで休む。もう自由だ。自由なんだ」桃子さんが達した境地である。
ところが;;、三月三日、孫のさやかが一人でやってきた。腕のもげそうな人形を「ママがおばあちゃんなら直せるって言ったよ」と差し出す。子供たちと関係がこじれていた桃子さんの心は、みるみる温もる。柔毛突起の活躍の場は無い。あらら、桃子さんの高邁な「自由」の境地はどこへ行ったのだろう?
私は思う。『おらおらでひとりいぐも』を書き上げたことこそが、若竹千佐子の「ラクダの旅」だった、と。
半田たつ子
「新しい家庭科―We」(1992年2・3月号終刊)編集長
関連著書・『今日から独りで生きる』(二見書房)、『失い、そして得たものー響き合って二十年』(教育資料出版会)、『過ぎし日々に向き合う』(自費出版)他。
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