28日放映のEテレ「痴漢の論文」は、痴漢冤罪を不当に強調し、被害を受けた女性が声を上げるのをさらにためらわせかねない、非常に問題のある内容でした。性暴力問題を研究する者として、看過できないと考え、NHKに以下の質問状を送りました。回答があり次第、ご報告します。

2018.3.30
NHK Eテレ「ろんぶ~ん 痴漢の論文」制作担当者御中

突然、ご連絡させていただく失礼をご容赦ください。
私は、性暴力やセクシュアル・ハラスメントに関する研究をしている者で、専門家として貴局の番組に出演や取材協力させていただいたこともございます。痴漢については、直近では、朝日新聞3月8日版朝刊にインタビューが掲載されております。
その立場から、貴局で2018年3月28日夜11時から放送された標記番組につきまして、以下の質問をさせていただきたく存じます。

前半(厳島論文)にかかわる部分について
1. 痴漢被害はおびただしく起っており、番組では女性の63%が被害経験があると紹介されていましたが、それ以上の数を示すデータもあります。とくに電車の痴漢は、女性たちにとって、毎日の通勤や通学にも悪影響を及ぼす深刻な問題です。ところが番組では、そのすぐ後に、男性の70%が痴漢に間違われる心配をしているという数字を挙げ、「痴漢被害で苦しんでいる女性は多いが、男性も冤罪で苦しんでいる」と、痴漢被害と痴漢冤罪があたかも同じように起っている問題であるかのように扱っておられます。しかし、痴漢に関する現実を比較するのならば、実際に痴漢冤罪がどれくらい起こっているのか、冤罪被害にあった男性の割合はどれくらいなのかを提示すべきではないでしょうか。それを抜きに、単に「懸念している」数値を示してあたかも痴漢冤罪が多数生じているかのように表現するのは、現実の痴漢被害を矮小化し、「痴漢には冤罪がありがち」という誤って流布しているイメージを強化してむしろ痴漢防止に逆行することになりかねないと考えますが、いかがでしょうか。

2.昨年、電車内で痴漢を疑われた男性がホームから線路に逃走した事件が多発したことについて、あたかも冤罪被害であるかのように番組では扱っておられますが、しかしその中には過去に実際に痴漢を繰り返しておりその時も痴漢と名指されたのにはじゅうぶんな根拠があると考えられる件も含まれていました。番組での表現は、こうした事実を無視し、あたかも「痴漢などしていない男性に対して冤罪が多発している」ことを主張していることになると思いますが、このように表現された根拠は何でしょうか。

3.紹介された厳島論文は、「臀部(お尻)を手やリュックで触る」実験データに基づいています。ところが、その前に紹介された実際の痴漢事件での被害女性の証言はいずれも、「お尻から股間まで指何本で撫でまわされた」「下着まで触られた」といったもので、お尻を着衣の上から3秒間触るというレベルとは大きく異なっています。じっさい多くの痴漢被害は、単に「お尻に手が当たった」ようなものではなく、証言のような悪質で執拗なものです。つまりこの実験は、実際の痴漢の状況とは大きくかけ離れています。それなのに番組では、この論文をもって、「臀部の感覚は当てにならないから痴漢は冤罪が起こりがち」という主張をし、しかも、痴漢事件の裁判が「お尻の感覚がすべて」で裁かれているといった、事実に大きく反する言明までしておられます。これは、痴漢被害や裁判の現実を歪め、痴漢被害をうったえる女性の声は「どうせ当てにならない」かのような受けとめ方を広げかねない、悪質なミスリードではないでしょうか。

4. 前項に続く番組内で、リュックをお尻に押し付けて数度上下させ、それが手の感触と区別がつかないことを証明する実験をしておられます。しかし、背中に負ったり前に抱えたりするのが一般的なリュックが、お尻の部分にあのように上下に撫でまわすように当たる事態は果たして現実的でしょうか。それなのにあえてあのような「実験」をして、冤罪が起こりがちであるようなイメージを押し出すのは、非常に悪質ではないでしょうか。また、手ではなく、リュックや鞄など物を用いてであれ、許可無く他者の身体を撫で回すのも痴漢に他なりませんが、その認識はお持ちでしょうか。

(後半について)
5.「痴漢」の語源を明らかにする論文内容でしたが、その説明の中で、画像をまじえ、痴漢がいかにも卑猥で特別に悪質な男であるかのように描かれていました。しかし、番組中で紹介のあった斉藤章佳先生の著書でも明らかにされているように、現実の痴漢は、ほとんどが「普通の男性」「一般のサラリーマン・学生」です。番組のような描き方は、痴漢および痴漢犯人のリアリティを失わせ、被害をいっそう埋もれさせてしまうことになりかねませんが、なぜこのような描き方をされたのでしょうか。

(番組全体について)
6. 番組は、総じて、痴漢被害を矮小化するだけでなく、「痴漢には冤罪がありがち」という誤って流布しているイメージを強化して、現在でさえ被害に遭っても声を上げにくい女性たちをさらに沈黙させるような「効果」さえ持っているのではないでしょうか。貴局はとりわけ公共放送として、痴漢はじめ性暴力、セクハラを防止根絶していくことに社会的責任を負っておられるはずですが、このことについてどうお考えでしょうか。

7.番組につきましては、放送前から、痴漢被害をエンターテインメントにしていいのか、といった批判がSNS上で飛び交っていました。それを承知の上で放送に踏み切られたのでしょうか。そうであるなら、その判断の理由をお教えください。

8. 以上数点にわたって述べてきましたように、番組は、痴漢という性暴力について、誤解と偏見を広げかねない、非常に問題のある内容でした。この点について責任を認め、少しでもこのマイナスを回復するような、痴漢被害の現実に基づいた、痴漢防止に役立つような番組を、今後制作放送されるお考えはありますか。

以上につきまして、お返事をできるだけ早いうちに、頂戴できれば幸いです。なお、本質問状は、女性と女性の活動をつなぐwebサイトWAN https://wan.or.jp/ にて公開させていただきます。

なお、取り上げられた論文いずれにつきましても、以上は、論文そのものや著者への疑問や批判では一切なく、あくまで番組での取り上げ方、紹介の仕方について述べておりますことを念のため付記しておきます。

大阪大学大学院人間科学研究科教授
牟田和恵
(連絡先詳細は本サイトでは省略)