2018年・現代企画室

 詩集を読むのは嫌いではない。パラパラと拾い読みができるから。
 毎年開催している永山子ども基金チャリティコンサートの仲間の太田昌国さん(現代企画室)は、打ち合わせに、必ず、風呂敷包に新刊本を持参する。そして、打ち合わせの終盤、にわか本屋となる。そこで、新刊「抒情詩集」と全く愛想のない題名の本を手に取った。オビに美しい女性の肖像画。「17世紀メキシコから、詩人・修道女が現代にワープ!」と、現代企画室の本にしては派手だ。そして本文から詩の抜粋が紹介されている。
 「愚かな男性の皆さま あなた方は女性のことをよく非難できますね 断罪していることの原因はまさに自分たちだという自覚もないまま」
 ソル・フアナなる女性は全く知らなかったが、メキシコではもっとも有名な女性の一人で、彼女はメキシコ紙幣の肖像画にもなっている。オビに紹介された詩の一文は、小さいながらもなんと紙幣にも印刷されている。スペイン植民地時代のメキシコで、学問をするために、また男性からの支配を逃れるために修道女となった女性詩人。パラパラと読むと、詩の軽快さの中に、辛辣さが塗りこめられていて、17世紀の女性が書いたということに驚かされる。男性と権威に対する痛烈な批判の意思が明確なのだ。メキシコの人々は、紙幣の肖像画と共にこの詩を日常的に目にしているし、このフレーズを知らない人はいないという。こんなことを言われたことも、聞かされたこともない日本の男たちは、ここでも差がつけられている。

 彼女の意思は、散文にもっとリアルに顕れる。
「私は、ただ頭の中を美しくしようとしているだけであって
美しいものに頭を悩ましているのではないのに」
 これの注として、訳者は、彼女の著名な散文「ソル・フィロテアへの返信」から、以下の一文が紹介しているが、これがまた凄い。「女にとって・・それも花咲く年ごろであればなおさら・・髪の毛は自然の飾りとしても価値があるとされているにもかかわらず・・実際に私は馬鹿さの罰として髪を切りました。こんなにも知識がなくて丸裸な頭が髪の毛を着ているなんて理不尽に思えたからです。知識の方がもっと魅力的な飾り物ですから。」
 この明快さに、久しぶりに圧倒された。
 ただし、本書は詩集である。彼女の散文は訳者が注として付けているだけであり、全編は、恋愛詩、慶弔詩、風刺詩、宗教詩のジャンルに分けられ、長短まじる詩編である。しかも、愛も、異性も、多分同性へも、もちろん修道女なのだから神への愛もと、多様である。訳者あとがきによってやっとわかったのだが、日本で紹介されているソル・フアナは、注として紹介されている散文と恋愛詩を中心に編まれているのに対し、本書は、主要な抒情詩を偏りなく収録し、詩人としてのソル・フアナの輪郭をバランスよく提示しているものを定本として、本邦初の訳本だとのこと。遅まきながら、ようやく題名の「抒情詩集」であることの意味が分かった。
 ならば、恋愛詩から心に残るほんの一節(これらは長い論証の結論)
「ですから どれほど愛していても 理知によって愛する限り 魂を全て捧げることもないでしょう」
「でも あえてどちらかを選ぶとすれば 愛してくれない人の無残な奴隷となるよりも 愛してくれる人の専横な主人となる方がまし」
 哲学詩からも一節(これも長い論証の結論)
「わが知性よ 学ばぬことを学びましょう ここまで論じて明らかなように 知識を増やせば増やすほど 生きるための時間を失うのですから」
 詩集には、パラパラとページをめくり、目と心にとまり、頷ける喜びがある。思いがけず、17世紀からワープしてきた聡明な女性と出会うことができた。

  ■大谷恭子■
  弁護士、永山子ども基金代表、一般社団法人若草プロジェクト代表理事
  主著「それでも彼を死刑にしますか」(現代企画室)、「共生社会へのリーガルベース」(現代書館)など