1945年12月24日、連合軍総司令部GHQの民間人要員の一人として、ベアテ・シロタ・ゴードンは日本に赴任した。  最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥のもと、民政局行政部長チャールズ・L・ケーディス大佐の下で、そのわずか1カ月後、ベアテは「日本国憲法」の人権条項を書くことになる。ベアテ22歳だった。

 民政局のメンバーは、ルーズベルト大統領の「ニューディール政策」を信奉するニューディーラーたち。憲法草案にかかわる学者や法律家25人、うち女性6人。20代のベアテ以外は40代の若さだった。ベアテはタイム誌記者の経験から優れたリサーチャーとして、また5歳から15歳まで日本で育った語学力を駆使して、新しい憲法の人権条項、とりわけ日本の女性の権利の獲得にかかわっていく。

 1946年2月1日、松本烝治国務大臣らによる日本政府の「憲法草案」を毎日新聞がスクープ。だが、その内容が明治憲法の域を少しも出ていないことから、民政局准将ホイットニーは、文案を修正するより、新たに「民主化」のモデル案をつくるべきだと、急遽、2月4日、「新憲法草案」作成を指令する。ポイントは3点。天皇をヘッドの地位におくこと。戦争放棄を明示すること。封建制度の廃止を重点に。9日後の2月13日、GHQ憲法草案が完成。14日、日本政府に手交された。

 3月4日~5日、日本政府と民政局との対訳会議がもたれた。ベアテは通訳として出席。彼女の書いた「男女平等」の条文を「日本的ではない」との理由で日本側は反論する。白洲次郎らを交え、32時間に及ぶ日米翻訳戦争の末、3月6日夜、「憲法改正草案要綱」がまとまり、日本政府の主体のもとに発表された。翌7日、各紙に「戦争放棄の新憲法草案!」の大きな見出しが踊る。

 そこに至るプロセスは民政局内部にも葛藤があった。自由平等の国とされるアメリカで女性の非力さを知ったベアテは、ワイマール憲法(1919年)や女性参政権を記したアメリカ合衆国憲法修正第19条(1920年)、ソビエト社会主義共和国連邦憲法(1936)を読み込み、「女性の基本的人権」条項の作成に推敲を重ねていく。だが、簡潔主義を貫くケーディス大佐のもと、そのいくつかは「社会立法に関する細々した規定は削除し、民法の規定に」の方針で削られてしまう。

 たとえば妊婦と乳児の保育にあたる母親への公的援助。非摘出子は法的に差別されないこと。公私立学校は民主主義と自由と平等、正義の基本理念、社会的義務を教育すること。公私立を問わず、児童の医療費無償化。職業の機会均等と男女同一労働同一賃金。女性と子ども、恵まれない人々への特別な保護等の条文が消えた。それから70年余、これら「女性の権利」が保障されたとは、未だいえない課題が、なお残ったままだ。

 そして1946年11月3日、「日本国憲法」公布。翌47年5月3日に施行された。

 ベアテの父レオ・シロタはロシアのキエフ生まれのユダヤ系ピアニスト。ウィーンでの音楽活動を経て、1929年、山田耕筰の誘いを受け、妻オーギュスティーヌと5歳の娘ベアテをつれて来日、東京音楽学校教授となる。1939年、15歳のベアテは単身、アメリカへ留学。両親は、戦争を挟み、ウィーンへの帰国を果たせぬまま、1946年、アメリカへ移住。17年の日本滞在の間、レオ・シロタは豊増昇、永井進、井口基成、園田高広、田中園子など多くの日本人ピアニストたちを育てた。

 私の母はベアテと同い年の1923年生まれ。1947年(昭和22年)、4歳の私は母につれられ、大阪南部の淡輪から和歌山・水軒口の内田先生のお宅へピアノの稽古に通った。先生はレオ・シロタに学んだ井口基成のお弟子さん。また先生は淡輪の田中さんのお家に、朋子ちゃん、頼子ちゃん姉妹のレッスンに出張教授にこられていた。

 田中さん一家は、戦時中、戦禍を逃れて東京・麻布から淡輪の別荘に疎開していた。戦争が終わってもなお、しばらく麻布の家へ戻れなかったらしい。見知らぬ人が留守宅に住み着いていたからだ。母上は東京でレオ・シロタにピアノの手ほどきを受けたとも聞いた。頼子ちゃんと私は大の仲良し。二人で小石を敷きつめた灯籠のある庭を走り回り、中2階のお部屋に隠れて鬼ごっこをしたりして、よく遊んだ。

 お稽古仲間の伴さんの山の上のお家で、ある日、ピアノの発表会があった。広い一間廊下の奥に大きなグランドピアノが置かれていた。その数年後、伴さんのお父さまが、大阪の難波駅で暴漢に襲われ、銃で撃たれて亡くなられたとラジオのニュースで聞いた時は、もうびっくりして「こわいなあ」と思った。

 戦後は、そんな殺伐とした時代だった。農場を開いていた父も、買ったばかりのホームスパンのオーバーを盗まれた。麻雀で遅く帰る父を待ち、玄関の鍵を開けたままにして母と私が寝込んでいる間に。泥棒は台所のお櫃にあったご飯を食べ、土間にウンチまでしてこっそり帰っていったようだ。幸い、母も私もぐっすり眠っていて何も知らずに無事だったけど。


 茶園敏美著『もう一つの占領』を読む。先頃、WANに『戦争と性暴力の比較史へ向けて』の書評を書いた。それで「セックスというコンタクト・ゾーン」の章を担当した茶園さんが、新刊のご著書を贈ってくださったのだ。
(https://wan.or.jp/article/show/7817)

「コンタクト・ゾーンとは、占領/非占領という圧倒的な非対称の空間において、被占領者である占領地女性が、自らのエージェンシー(行為主体性)を発揮し、占領兵と相互交渉を行う空間」のこと。本書は、占領地女性と占領兵の「自発的な関係」という、占領下での彼女たちの生存戦略を丹念に分析していく。彼女たちに寄り添い、あたたかい目線を注ぐ著者の思いが、行間からよく伝わってきた。

 読んでいて古い幼児記憶を、ふと思い出した。1946年(昭和21年)、3歳の私は伯母に手を引かれて町を歩いていた。向こうからアメリカ兵のMPが近づいてきた。そして私は、ひょいと抱き上げられ、ほおずりをされたのだ。ちょっとびっくりしたけど、優しいしぐさに怖くなかったことを今も覚えている。きっとアメリカに残してきた我が子を見る思いがしたのかもしれない。

 小学1年生の入学式。一人の男の子が、まだ珍しかった黒皮製のつやつやのランドセルを背負ってきた。中にはチョコレートも入っていて。みんな、「いいなあ」と思った。どうやらその子の母親は「オンリーさん」と村で噂されていたらしいと知ったのは、ずっと後、大きくなってからのことだった。

 「もうひとつの占領」を生きる、彼女たちの拭えないスティグマや強いられた沈黙を、決してなかったことにすることはできない。「共感的な聞き手」がいて初めて、彼女たちは語り始める。そしてその記録が残されていく。

 「憲法が今まで改正されなかったのは、この憲法がいい憲法だから。平和がいちばん大事。平和でないと女性も幸せになれない」とベアテは、いつも語っていたという。ほんとに、そう思う。

 では今の日本は? 憲法9条や24条をはじめ、改憲の動きが着々と進められようとするなか、軍靴の響きが近づいてきそうなこの頃。とりわけ女性の権利といえば、あきれるほどに時代遅れ。ずーっと昔に後戻りしていくかのような世の中だ。

 この「悪しき世」を変えるには、どうすればいい?
 一人よがりかもしれないけど、いつも思うことがある。 たとえば、語ることは自らの心を開くこと。書くことは自分を脱ぐこと。向きあう相手の声に素直に耳を傾けること。語って、書いて、聞いて、考える。自らの心の内を見つめる一人語りや、見たくないこともあえて見る勇気をもち、こちらが心を開けば向こうも打ち解けてくれると信じて。そうやって人と人は解き放たれていくのではないかと。そうすれば、やがて山は動き始める。そんな思いで、しばし、この「時代」を生き延びてみようかと考える今日この頃。