モスバーガーのバーガーに入っているレタス、セブンイレブンのシャキシャキレタスの入ったサンドイッチ、生協やパルシステムで販売されるレタスなど、私たちが日常触れ食べる新鮮なレタス。ほかにキャベツ、オクラ、トウモロコシを栽培しているのが、静岡県掛川市の塚本佳子さん。彼女は、12年前、初めて訪れた菊川市で、ゼロからレタス栽培を始めた。そして会社を自ら立ち上げた。株式会社やさいの樹だ。いまでは延べ30ヘクタールの農地を耕す。
モスバーガーには、店頭に生産農家・塚本さんの顔写真も登場!
東海道新幹線掛川駅から車で15分ほどいったところに、塚本さんの農場がある。彼女の栽培をした野菜は、近くにある「野菜くらぶ」(http://www.yasaiclub.co.jp/)の出荷場に運ばれ、そこからモスバーガー、生活クラブ生協、パルシステムなどに送られる。また加工会社を経由して、スーパー、セブンイレブンのカット野菜などの原料として使われる。
「掛川や菊川のモスバーガーの方がときどき畑にお見えになります。畑でとったレタスを店舗で使って、そこでレタスも販売をしてくださるということもあります。
私、神奈川県藤沢の出身なんです。同級生から、藤沢のモスバーガーで顔写真が貼ってあったよ、なんて連絡をいただくこともあります。嬉しいですね。
生協さんが、現地視察でお見えになることも年に1度あります。また、私たちが、生協さんやモスバーガーさんなどのお客さんのところにも伺うこともあります。
そこで話をうかがい、要望を聞いて、この時期に増やしてほしいとか、もっと大きなものがいいので品種を変えるとか、そんなこともしています」
塚本さんの野菜を出荷する「野菜くらぶ」とは、群馬県昭和村にある農家・澤浦彰治さんたちが作った農業の法人。自ら売り先を営業開拓し、相手が求める野菜を栽培し、直接契約をすることで、農家の経営を安定させ、かつ販売先は消費者に求められる作物を扱うことができるというニーズにあった農業への取り組みを行ってきたところ。この会社の特徴は、生産者が出資してつくったという点。1992年、昭和村の農業仲間3名が、野菜の栽培・生産、また冷凍野菜の販売などを手掛ける会社として設立した。
生産者は 74 名(農業生産法人 14を含む。農業生産法人 14のなかに、塚本さんの法人「やさいの樹」が入っている。
働くスタッフは5つあるグループ法人全体で180名。売り上げは 34 億円。順調に販売を伸ばしている。
グループの会社は、ほかに、有機コンニャク芋の栽培、コンニャク加工、冷凍野菜などを手掛けるグリーンリーフ株式会社。有機小松菜、有機ホウレンソウを栽培する株式会社四季菜。モスバーガーとの連携でトマト生産をする株式会社サングレイス。新たに立ち上げた休耕地での太陽光発電を主体とした再生可能エネルギー売電を行なうビオエネジー株式会社がある。
菊川市で生まれて初めてのレタス栽培にチャレンジ
「野菜くらぶ」では、要望のあったレタス栽培を、群馬とは時期の違う青森県でスタート。その次に菊川市での栽培をすることにした。こうすることで、販売先がもとめる年間を通しての質のいいレタス提供ができる。そして、そのレタス栽培に挑戦することとなったのが、研修生の塚本佳子さんだった。
新規就農をしたのは12年前。群馬県にある「野菜くらぶ」の関連会社グリーンリーフ(http://www.akn.jp/index.php)で研修を受けたあと、初めての地で農業をスタートさせた。35歳のときだ。まったくのゼロからの農業だった。「野菜くらぶ」の存在を知ったのは、インターネットだった。新規就農フェアというのが行われていて、その会場のブースに澤浦彰治さんがいた。
「うちの祖父が群馬県出身。実家が神奈川県藤沢だったので、独立するなら関東がいいなと思っていた。「野菜くらぶ」には、独立支援プログラムというのがあって、就農の支援をしていた。すでに青森県で山田広治さんが成功をしていたので、なんの不安もありませんでした。売り先は決まっているし、むしろ独立してからが不安でしたね。群馬の研修で作っていたのは、小松菜、ほうれん草、白菜。レタスは作ったことがなかった。これを作りたいというのがなかったので、レタスを菊川でやって、と言われて、ハーイってな感じです(笑)自分が食べられないものだったら断っていたかもしれないけど、レタスは食べられるから、わかりましたって(笑)」
今では、ほぼ、毎日のように野菜を出荷をしている。売り上げは1億5000万円。社員は塚本さんを入れて5名。海外からの研修生が7名。合計12名が働く。海外からの研修生は、タイ、カンボジア、インドネシアから。公益社団法人日本農業法人協会(http://hojin.or.jp/)を通して受け入れている。期間は3年間だ。
菊川の農地は、「野菜くらぶ」が探してきたもの。「野菜くらぶ」が保証人になり土地を借りて始まった。最初の1年は研修期間。
「1年目は、なにもわからなかった。なにがわからないかもわからない。赤字でしたね。1年やってみて、わからないことがわかり、2年目で出荷できた。1年目の赤字は、「野菜くらぶ」が補ってくれたんです。つくり方は近郊の農家さんに習った。そのあとモスバーガーの生産者の集いで知り合った方に習いました。最初、レタスを作ったとき、しっかりしまったものをモスバーガーにもっていったら、これではダメだと言われた。ふわっとした、柔らかいものが欲しいと言われました。モスバーガーでは包丁をつかわない。レタスを手で剥いて使うんですね」
3年目に菊川で独立。資金は貯金の150万円
3年目に独立した。独立資金は300万円。そのうち半分を「野菜くらぶ」が持ち、塚本さんが半分の150万円を貯金から出した。栽培に必要なトラクター400万円、トラック120万円、定植機(苗を畑に植える機械)60万円などは、日本政策金融公庫(https://www.jfc.go.jp/)から融資を受けた。農地は菊川市の農家から借り受けたものだ。最初は8ヘクタールからだった。アルバイト1名。タイからの外国人研修生2名でスタートをした。
今では、周辺の農地を借り受け規模も大きくなり、レタス、キャベツ、オクラ、トウモロコシの4品目を、のべ30ヘクタールで栽培をするようになった。
農地はすべて借地だ。
「畑はすべて借りています。自分の土地は会社の敷地以外はありません。農地を購入するというメリットを感じない。農家の常識がないからかな(笑)。周りから借りてほしいというのはあります。それに応えられない。現状追いついていないですね」
「レタスの植え付けは9月に始まり、年明けの2月まで植え付けます。出荷は11月から4月まで。その間、ずっと収穫をする。冬場のレタスは昼に採るんです。朝だと霜が降って凍ってしまうんです。夕どりレタスで午後2時から午後3時くらいに収穫をして出荷する。夕方の方が糖度が高くなる。お客さんに夕方採ってくださいと言われて取って食べてみたら、夕方の方がおいしかった。それは飲食店「しゃぶしゃぶ温野菜」(http://www.onyasai.com/shp/)さんに出ています。
とれた野菜は菊川の「野菜くらぶ」の出荷場に出します。そこから取引先に運ばれる。出荷場ができたのは、10年前。それまでは、「野菜くらぶ」契約のトラックが畑まで集荷にきてました」
レタスの栽培は、稲刈りの終わった田んぼを借りて行う。つまり菊川市の田園地帯は、秋はたわわに稲が実り、そのあと冬になると一面が緑に覆われたレタス畑となるのである。
「田んぼの裏作でレタスを栽培をして、春になったらお返しをする。全部で20ヘクタール。使用料は反(300坪=10a)1万円。栽培するレタスは、特別栽培(地域で使われる農薬・化学肥料の使用基準の半分以下のもの)です。大半のお客さんは、やわらかくてあるていど大きいものを求められるので、それを目指しています」
「キャベツは植えるのが9月。収穫は春。3月から6月に出しています。これは月によって品種が違う。早く成長するのとゆっくり成長をするのがあるんです。日本では4月、5月にキャベツを作るが難しい。春が来てあった
かくなると花が咲く。玉にならない。だから4月、5月のキャベツは、たいていは冷蔵したストックのキャベツが売られている。難しくて作っている人が少ない。みんなが作っていない4,5月に出している。頭悪いのかな。単価は変わらないのに、リスクの多い時期に、あえてビニールを張ってまで栽培をしている。要領が悪いのかもしれない。レタスも採れたものを、すぐに出しているから、キャベツも収穫したとれたてのものをすぐに出したいというのがあるんですね」
「オクラは、通年で1ヘクタールの田んぼだったものを借りて栽培しています。収穫は6月から9月上旬。角オクラと、丸オクラ。丸オクラは角がない珍しいもの。生協さんに出している。角オクラにくらべて粘りが強く味も濃いのが特徴。オクラは、大変。出荷となると毎日袋詰めをしなきゃならない。1ヘクタールというのは、ちょっと規模的には大きいと言われています。
トウモロコシは、1ヘクタール。品種は『恵味(めぐみ)ゴールド』。出荷は7月ですね。生協さんにだしているのと、直接販売を畑の横の道路わきでトラックを置いてしています。毎年、ファンの人が買いにきてくれます」
塚本さんの野菜は、「野菜くらぶ」の営業担当が、取引先と契約をしているために、年間を通して、安定した価格が保証される。そのことで、塚本さんは、栽培に専念をすることができる。
「毎日、収穫をしたものは食味をしていて、食べておいしいものを作るように心がけています。契約なので、市場の値段が下がるときにも、価格が下がるということはない。ただ、全体の価格が下がるときは、市場の安い方に流れるので、注文が減る傾向にある。逆に値段が高いときは、注文が増える傾向にあります」
2018年のレタス価格がいい例だろう。2月は、大雪で不作となり野菜類が高騰。スーパーに並ぶレタスが1個450円という値段になった。レタスの市場の値段は、ひと箱3000円と急騰した。ところが春になると豊作となり、ひと箱50円と急落。出荷する農家は、箱代にもならないという状況になった。
そんななかで、塚本さんたちの「野菜くらぶ」のメンバーは、最初から年間を通して契約をしているので、高騰したときは、大儲けはしないけれど、下落をしたときも損をすることなく、安定した価格が保証され、安心して栽培ができるという仕組みだ。実は、この契約は、野菜を使う側にもメリットがある。あまりに高騰すると、使う側も価格に簡単に反映できない。生産者には、普段とあまり変わらない値段で提供してもらうかわり、市場価格が安値のときも、一定の価格を保証することで、双方が協力しあうというものだ。
「『野菜くらぶ』が営業をしてくれているというのが大きい。自分の持ち時間を現場に集中できる。いいものを作る技術を身につけるための時間もできる。。これで自分で営業、販売までしていたら、とても時間が足りないでしょう。
いいものさえ作っていれば、『野菜くらぶ』が売ってくれる。集中をして仕事ができます」
塚本さんが新たに研修生を迎え新規就農者が回りに増える
塚本さんが菊川で新規就農を形にしたことで、後継者も生まれた。
「今では、静岡に12名がいます。レタスが5名。トマト、そのほかが7人。合計12名がいます。トマトは、モスバーガー向けのトマト栽培をする株式会社サングレースhttp://cando-n.com/group/sungrace/で研修を受けた人たち。レタスは、私のところで研修をした人が独立しました。
彼らとは、出荷時期は毎日のようにあって情報交換をします。出荷がないときでも月1はあっている。来季のレタスは、こんな品種を使いたいとかね。肥料はどんなものがいいかとか。トラクターの技術とか。お互いに見にいったりね。部会も毎週あります。一人のときより、今の方がやりやすいですね。
ただ研修はここ最近4年ほど応募がない。好景気になると、農業は敬遠されるのかなあと思いますね。やったらやっただけの成果があるんですけどね」
そんななかで塚本さんは、海外研修生の未来に夢を抱いている。
「海外の研修生を受け入れています。研修の最後に来てよかった嬉しいと感謝されるのが嬉しい。今、考えているのは海外からきて研修をした人たちが帰国して作った野菜を輸入できないかなんて考えています。私が独立できたのは「野菜くらぶ」の支援プログラムがあったから。それと同じようなことがタイやカンボジアでできないかなって思っています。3年間一緒に働くわけですから、技術もノウハウもつなげないかなと。それがオクラでやれないかなと。みんな農家出身で実家では農業をしている。トウモロコシ、サトウキビ、お米など普通に栽培をしているんですね。帰国して、またよその国に出稼ぎにいっちゃう人も多いですけど」
海外研修生は、アパートを会社で借りており、そこで住んでもらう。賃金は県の規定の最低賃金(時給832円=平成29年改訂)だ。
農業のきっかけはエクアドルへの海外青年協力隊活動からだった
実は、海外支援ができないかという塚本さんの思いの背景には、もともとの農業の出発が、海外青年協力隊としてエクアドル共和国に行ったのがきっかけだったということがある。
「高校のときに東アフリカ・エチオピア連邦民主共和国に飢饉があって、部活の顧問の先生が支援をするボランティアをしていた。それで自分で何か協力ができないかと日大の農学部拓殖学科(現・生物資源科学部国際地域開発学科)を選んだんです。自分で農業をやりたかったわけではなかったんですね。それで海外青年協力隊に応募した。派遣先が中南米のエクアドル共和国だった。パイナップル、キャベツ、トマトなど栽培をしていました。新卒で行ったので技術もなく協力できるわけがなく、実力のなさを痛感しました。ですけど、周りの人たちがとてもあたたかく迎えてくださり生活環境はとてもよく楽しかったんですね」
塚本さんはエクアドルの3年を経て帰国後、専門的な農業を学ぼうと次に訪ねたのが、鳥取県にある「 国立大学法人 鳥取大学乾燥地研究センター」http://www.alrc.tottori-u.ac.jp/japanese/だった。アフリカに行きたいという思いから、乾燥地でも育つ植物の専門研究をするところに入ったのだという。行くと「ここは専門家が来るところで、君のような海外青年協力隊が来るようなところではない」と言われたという。
「猛烈に勉強しましたね。これまでいちばん熱心だったんじゃないかと思うくらい(笑)。ここで2年間学んだ。それで、今度は、宮古島の農業生産法人に研修に行った。亜熱帯じゃないですか。少しでもアフリカに近いところをという思い。今度は実地研修で技術を取得したいと思った。ピーマン、ゴーヤ、サトウキビなどを栽培していました」
宮古島で4年間の農業経験を積んだあと、塚本さんは再び海外青年協力隊に応募した。
「アフリカに行きたい。アフリカ以外は辞退する」と述べた。すると赴任先はアフリカ南部のザンビア共和国となった。
「アフリカと中南米エクアドル共和国では、まったく違いますし、行ってみたのはいいけど、自分のなかにはエチオピアのことがあって、アフリカに行かないといけないと思っていた。それで、エクアドルから戻って、頭をよくして、技術も必要だと宮古島で仕事をして、ターゲットをアフリカにしぼったんです」
ザンビアでは、2年間、子供たちに生物の先生として教壇にたった。そんななかで人生を変える大きな事件に会う。
人生を変えた2度目の海外協力隊アフリカ・ザンビア
「ザンビアでは、コンゴ共和国との国境の近くの地域でした。あるとき、コンゴの窃盗団が村に入り警官が射殺された。それで外出禁止令が出た。交通がすべて遮断された。村には水道も電気もない。連絡をするには無線機が必要で、私のところだけ、ソーラーパネルが設置されている。それでJICA(財団法人国際協力機構 https://www.jica.go.jp/ )に連絡をして車で迎えてもらった。狙わられたらどうしようと、もうむちゃくちゃ怖かった。そういう場面に出会って、ここで協力隊としてここの人のために働くことは、命をかけてもやりたいことじゃないかもしれないと思った。むしろ日本に帰り生計を立て、農業で協力をしていくのがいいのかもしれないと思い始めた。それを試してみよう。海外の人を受け入れて、日本で活動をしていこうと、それが自分にとっていいと思ったんですね」
それと、ザンビアで直面したもうひとつの現実があった。
「村では医療も十分でなく、子供が下痢をして死亡するというのがあたりまえのようにあった。それでスコップで穴を掘って埋めている。いまどき下痢で死ぬなんてありえないでしょう。人の命は平等じゃない。それを観てとてつもない絶望感にとらわれた。自分がいても、なにもすることができない。無力さ、力のなさをものすごく感じたんです」ともいう。
ザンビアから帰国するとすぐに働く場を探し始めた。そこで出会ったのが独立支援プログラムを始めたばかりの「野菜くらぶ」だったというわけだ。わずか2か月で研修に入った。そこにはまったく迷いはなかったという。そのとき35歳だった。
親は猛反対だったという。塚本さんは神奈川県藤沢生まれで3人兄妹の次女。父は中学の美術教師、母は保育士。農業とはまったく縁がなかった。
「父は就農してまもなく亡くなりました。母も最近亡くなりました。最初は反対だったけど、だんだんわかってもらえるようになって応援してくれていました」
今後の展開について、塚本さんは、いい環境を目指したいという。
「会社も10年になりました。社員も6年経つ人もいて、人も育ってきた。彼らを中心にできることを考えています。実際、取締役にもなってもらっています。後継者のためにも、新しい品目や施設栽培もやろうと思っています。今は、すべて露地栽培です。付加価値の高いものができるといいと思っています。
魅力ある職業にしたいですね。60、70代になっても続けられて、周りに影響を与えていけるようにしたいです」
ところで最後に気になったのが、塚本さんの家庭。
「実は独身です。縁がなかったんでしょうね」
趣味はと尋ねると
「ミュージカル。掛川に劇団四季が来るんです。友達と見に行ってたりする。『コーラスライン』『キャッツ』とかね」
連絡先:
◆野菜くらぶ
http://www.yasaiclub.co.jp/