宮沢賢治・角川文庫

 くりかえし読んだあのお話をいま、思い出せるだろうか。
 わたしの中の「セロ弾きのゴーシュ」はサクセスストーリー。つたない演奏しかできなかったゴーシュが夜中の練習中にさまざまな動物とであい、助言をえて本番の音楽会ではすばらしい喝采をあびるのだ。

 お盆があけたにもかかわらずまだまだ暑い日、わたしはLGBTの支援活動をしている方との打ち合わせに出向いた。
 ラジオ出演にあたって番組の中で必ず伝えたいことはなにか。ロバート・キャンベルさんの「カミングアウト」で本当に注目するべきことはなんだったのか、生きづらさに苦しむ人、旅立つことを選ぶ人たちの多さ。わたしたちはどんなことができるのだろう。いや、どうするべきなのか―

 トークのかなめが決まり、ゲストに毎回お願いしている「一冊の本をすすめる」コーナーについてたずねる。すると、
「セロ弾きのゴーシュですね。あの話に救われたのです」
 楽長から演奏の腕をさんざんにののしられ、夜通しセロを弾くゴーシュ。彼のもとへ森の動物たちがつぎつぎやってくる。ゴーシュは時にいらいらさせられ、時に的確なアドバイスをもらい、一心不乱に練習を重ねるなか、ねずみの親子がたずねてきた。なんでもゴーシュのセロのおかげで兎や狸、みみずくの病気がすっかり治ったので、ねずみのこどものあんばいが悪いのも治してほしいという。
「みんなからつまはじきのようにされていたゴーシュの音楽が、知らないところで動物たちの病気を治していた。もちろんねずみの子どもの病気もよくなるのです。このお話を読んだときに、そうだ! だめなやつも生きていたっていいんだ! 知らないうちに役に立つこともあるんだ! と思ったんです」
 この話をすると必ず泣いてしまう。そう言いながらティッシュで涙をぬぐい、鼻をかみつつ教えてくれた。

   そんな話だったのか。
 急いで読み返してみる。ゴーシュはどんな人だっけ。
 わたしのゴーシュは、成功して賞賛されて、冷たくしてしまった動物にわびる好青年。でもページを繰った先には、挫折し、苦しみ、ひどく醜い顔も見せ、あげく自分の知らないところで誰かを助けていたことに驚き、救われるもう一人のゴーシュがいた。
 わたしはお話の光の部分しか読んでいなかったのだった。
 やっかいものと思われ、悲しみと無力感を胸にさんざん八つ当たりして、ののしりの言葉を撒き散らしながらもどんどん前に進むゴーシュ。
 2018年に再会した「セロ弾きのゴーシュ」は少し苦く、あのかっこうが元気でいるか気になっている。あなたのゴーシュはどんな顔をしているだろう。

■松本芽久美(まつもと めぐみ)
1967年富山県生まれ。
北日本放送ディレクター、リサーチャー。

セロ弾きのゴーシュ (角川文庫)

著者:宮沢 賢治

角川書店( 1969-02-24 )