毎週1回、95歳の母のもとに訪問看護師さんがやってくる。母の診察の合間に、若い30代の彼女と、あれこれとお話する。

 彼女は10代の頃、ドキュメンタリー映画作家を夢見て、10年前に亡くなった土本典昭監督のもと、裏方として働いていたという。20代後半、思い切って進路を変え、看護師の道に進む。今は気の合う仲間といっしょに訪問看護師として忙しく働いている。

 『水俣―患者さんとその世界』(1971年)以降、土本典昭監督は、水俣を扱う17本の連作を世に送り出す。小川プロの小川紳介は、「三里塚」をずっと追い続けた。『ゆきゆきて、神軍』(1987年)の原一男監督は今なお新作を撮り続けている。突然の交通事故で亡くなった若松孝二監督のことは、若い彼女は知らないかな。1970年代後半の夏、京大講堂で上映された原監督のデビュー作『さようならCP』(1972年)を小学生の娘をつれ、大勢の脳性マヒの人たちとともに見入ったことを思い出す。

 「無声映画の頃は女の監督が主流だったのよ。それがトーキーになり、映画が興行的に儲かるとなったら男性監督がどんどん出てきて女性監督を駆逐するようになったそうよ」と話すと、彼女は興味深そうに聞いていた。

      カライモブックス

 西陣に「カライモブックス」という古本屋がある。石牟礼道子、水俣、社会運動、人文、詩、文学、芸術、食、児童書などの古本や新刊書をとり揃えて、若いご夫婦が開いている。

 一度訪ねてみたいと思っていた。お彼岸を過ぎて、元夫の父と母のお墓まいりに北野天満宮近くのお寺へ出かけた。そのついでに自転車を北へ走らせ、「カライモブックス」までいってみた。

 今年2月に亡くなった石牟礼道子さんを最後まで支えた作家・渡辺京二の『もうひとつのこの世 ―石牟礼道子の宇宙』(2013年)を買う。

 店先に並べてあった天草産の天日干しの塩も一袋求める。玄米と豆乳でつくる自家製ヨーグルトには沖縄の黒糖と海の塩が必需品。おかげで今日も、上手にヨーグルトができあがった。

 水俣病認定から50年。今なお水俣病は未解決のまま。国は被害者たちを見捨てたままだ。熊本県水俣保健所が原因不明の水俣病を公式に確認したのが1956年、その12年後の1968年、ようやく国は「公害病」に認定する。しかしその後も国は実態を明らかにせず、「患者」を絞りこみ、補償の支出を抑えようとしている。 福島の原発事故の被害者にも、国はまた同じ道をたどらせるのだろうか。


 「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」という彼女の『苦海浄土 わが水俣病』(1969年)は、決して聞き書きではないと渡辺京二は言う。 「それが自分のなかから充ちあふれてくるものであるから、そういえるのである。彼女は彼らに成り変ることができる。なぜならばそこにはたしかな共同的な感性の根があるからだ」と。

 ああ、そんなふうにして彼女は、人の思いを「聴いた」んだなあ。生きとし生けるもののあいだに交感が存在する美しい世界は、また同時にそのような魑魅魍魎の跋扈する世界」でもあることを彼女は誰よりもよく知っていたのだと。「異界への感受性」「文字以前の世界」は、ずっと昔から人々がもっていたはずのものなのだ。

 三池争議が始まった1958年、谷川雁、上野英信、森崎和江らによる『サークル村』が誕生した。肺を病む谷川雁が静養のため水俣に移り住み、やがて石牟礼道子も参加。初稿『奇病』(1960年)が掲載され、後に『苦海浄土』にまとめられることになる。

 サークル村の同人の一人、中村きい子の『女と刀』(1976年)を、ずいぶん昔に読んだことがある。武士の家に生まれた薩摩の女・フキが「刀一振りに値しない男よ」と70歳で夫と離婚し、80歳を迎えた生き方に、当時、40代でまだ専業主婦だった私は、何かじっとしていられない思いで心をかき立てられ、読み終えたことを覚えている。

 「この世」と「もうひとつのこの世」を生きた石牟礼道子は晩年、水俣から熊本市湖東に移り住む。江津湖のほとり、湖の生む幻想を描いて長編小説『天湖』(1997年)が生まれた。私の母の家も江津湖の近くにある。パーキンソン病を病む石牟礼道子は、湧き水が流れる静かな湖に心を慰められたのだろうか。

 なんだか季節の移り変わりが定まらないこの頃、やっと衣替えが終わった。母と叔母と私の分と3人分。ああ、くたびれた。

 母の入れ歯を支えていた前歯が折れた。これは大変と近くの歯科医につれていこうと思ったが、急な階段を昇って診察室にいかないといけない。大丈夫かなと思ってお電話したら、往診してくださる歯医者さんを紹介してくださった。先生はすぐに来られ、手早く処置をされ、一週間で新しい歯をつくっていただいた。それから母は、まあ、よく食べること。

 それに小2の孫のおかげで、このところ母の認知症が少し覚醒したようだ。応対も的確で、第一、目の輝きが違ってきた。こんなこともあるんだなと感心する。

 運動会明けのお休みに、よいお天気の一日、母と叔母と娘と孫といっしょに植物園へ出かける。鉢植えを買ってきてベランダに植えたら、花好きの叔母は毎日、花の世話に余念がない。

 あの世代の人たちは、人の「思い」を「聴く」ことに長けていたのだろうか。土本監督も石牟礼道子さんも同じ世代。今、生きておられたら90代だ。

 土本監督や石牟礼道子さんのように、人の思いを「聴こう」とする姿勢が、あとに続く世代に、とりわけ若い人たちへつながっていったらいいなあと、心から思う。